ポール・グリモー監督『王と鳥』

高畑勲宮崎駿が絶大な影響を受けたことで名高いアニメーションの名作『王と鳥』を見ました。この作品は、元々1952年にフランスで『やぶにらみの暴君』というタイトルで公開されたのですが、監督のポール・グリモーと脚本ジャック・プレヴェールにとって不本意なかたちで公開されてしまったので、1969年にフィルムを買い取り、1979年に『王と鳥』としてリメイクしたのだそうです。

このアニメーションは、タキカルディ王国という架空の国が舞台になっています。国王は傲慢な暴君で、些細な失敗をした臣下や気に入らない者を、床に穴が開く装置で奈落へと突き落とすような男です。彼は、臣下の前では尊大に振る舞いますが、誰も近づけないほどの高所にある彼の部屋では、絵画に描かれた羊飼いの少女に恋をし、自分の容姿に対するコンプレックスから鏡を叩き割ったりしています。

この国王の部屋にある絵画の羊飼いの少女と煙突掃除の少年は恋をしており、彼らは絵の中から抜け出て、王の部屋を逃げ出します。王は、やはり王の肖像画から抜け出た偽物の王によって、床の穴に突き落とされ、以降絵から抜け出た王が王の振りをして逃げた二人を追いかけます。

王に子どもを殺されたために王を恨んでいる鳥に助けられ、羊飼いの少女と煙突掃除の少年は、王の城をひたすら下に降り続け逃げ続けます。王の城の目もくらむような立体的造形と、この下へ下へと階段を降りる怒濤の逃亡シーンが、このアニメーションの演出の最大の見どころと言っても過言ではありません。

ついに城を抜けた二人は、地下にある貧民街までたどり着きます。貧民街は真っ暗で、住民たちは、太陽も鳥も知りません。しかし、巨大ロボットで追ってきた王に二人と鳥は捕まり、少女を連れ去られ、少年と鳥は強制労働、その後は猛獣のいる牢に放り込まれます。しかし、鳥は弁舌巧みに猛獣たちを騙し、扇動し、彼らは牢を出て、王城へと駆け上がります。最後は、巨大ロボットを乗っ取った鳥が、王の城を破壊し終わります。


このアニメーションの物語や設定はかなり寓意的であり、圧制に対する反抗、あるいは革命を描いていると言えます。王の城は、絶対王制期のロココ様式だけでなく、イスラム的な要素もあり、移動する王座や拡声器、エレベータもついているなど、どの時代のものとも言えません。王の暴政は、特定の支配体制を意識すると言うよりは、もっと普遍的に民衆を抑圧する体制を象徴しているのだろうと思います。

また、頂点に王の部屋、その下に王の城、そして遙か下方の地下に貧民街があるなど、高さが社会階級のメタファーになっています。最後に地下から王城へと鳥や猛獣が駆け上がっていきますが、市民かプロレタリアートかは定かではありませんがこれはどう見ても革命です。また、このアニメーションが、小鳥を閉じこめていた駕籠を叩き壊す場面で終わるのも、自由を抑圧する圧制に対する憤りを感じます。ただ、戦後すぐに作り始められたこと、そして作中で王が「労働はすなわち自由だよ」という台詞を口に出すことを考えると、やはりフランスを占領したナチスドイツに対する憤りが強かったのだろうと思いました。

ただし、王城の破壊が夕暮れの中行われ、王がいなくなり、王城が瓦礫となった後、巨大ロボットが考える人のポーズをしながら、途方に暮れている終わり方を見ると、単なる革命万歳映画ではないことは明らかです。ラストシーンには、鳥も少年少女も出てこないで、巨大ロボットという生き物でない存在が出てくるのですが、これはこの映画を非人称的で、より寓意的なものにしていると思います。この巨大ロボットは、もしかするとホッブスリヴァイアサンのようなものなのかもしれません。


また、この作品の内容をより奥深いものにしているのが、絵から抜けだした若者たちが初めて見る世界を見下ろしている時に、鳥の4匹の子どもたちが歌う「世界の不思議第四課」という歌です。

世界はひとつの不思議です
昼もあれば夜もある
月もあれば太陽もあり
星もあれば果物もあり
風にまわる風車も みんな世界にあるんです

世界はひとつの不思議です
昼もあれば夜もあり
海があって深いのです
大地があってまんまるです


ここでは、世界に様々なものが「存在する」という事自体が、不思議なことだと歌われています。何故この世界に「存在」があるのかということは、人知を超えた、まさに「不思議」なことです。この歌によってこの作品は、人間社会を超えたパースペクティブを獲得しており、深読みするならば、王様や鳥や少女や少年が存在することも「不思議」なことであり、あの王国がそのように存在すること自体が「不思議」なことであることを物語っているともいえます。そして、もし王様の暴政やあの王国があのように存在すること自体が、世界の不思議の一部であるとすれば、この映画の最後で巨大ロボットが途方に暮れている姿にも、大いに納得できるでしょう。


この作品の映像の特徴は、画角の広さと立体性です。王の城は非常に巨大なのですが、その巨大さを十分に感じさせるために、要所要所で非常に広い画角で背景が描かれています。しかも、その広大な空間が、非常に立体的に使われています。このアニメーションでは、広い空間を、キャラクターが立体的に移動する場面が何度も出てきます。たとえば、手前から奥へ歩いたり、逆に奥から手前に近づいたりします。アニメーションでは、キャラクターを縦に動かすのは非常に難しいのですが*1、この縦の動きを多用するところを見ると、労を惜しんでいないことが良く分かります。

また、この映画では、やたらと高所から下を見上げる場面や、階段を降りる場面が出てきます。これにより、画面に奥行きが感じられるようになり、本来平面的なアニメーションで、立体的な空間を感じさせていました。この立体的な空間設計は、後の宮崎駿の『長靴をはいた猫』や『カリオストロの城』の立体的な追いかけっこの場面に影響しています。

キャラクターの造形は昔のアニメーションらしくシンプルで、類型的ですが、内容的には非常に政治的・風刺的、なおかつ寓意的であり、かなり大人向けになっています。この作品の前身となった『やぶにらみの暴君』が作られたのは、まだ日本のアニメの黎明期、アニメが子供だけのものだった時代だったので、当時のアニメーション関係者に、大きな衝撃を与えたのでしょう。この作品が、日本の脱子供アニメの嚆矢である『太陽の王子ホルス』、さらにはスタジオジブリの作品まで繋がっていくわけで、まさに日本のアニメーション史を語る上では、避けては通れない作品だと思います。


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*1:縦の移動時には、キャラクターの大きさを遠近法に合わせて、小さくしたり、大きくしたりしなければならない。これには、かなり綿密な計算が必要。