井手口彰典 「録音メディアにおけるリアリティの所在――グレン・グールドから初音ミクへ」
井手口彰典さんの「録音メディアにおけるリアリティの所在――グレン・グールドから初音ミクへ」を読みました。この論文は、21世紀COEプログラム「『人類の幸福に資する社会調査』の研究」のディスカッションペーパーとして2008年1月20日に公表されたようです。
http://coe.kgu-jp.com/F1RMview.php?Q=404
この論文で、井手口さんは、生演奏を行わず録音・編集技術を通じてのみ作品の発表を行うようになったグレン・グールドと初音ミクが共に「メディア上にしか存在しないアーティスト」だと指摘し、それ以前の現実世界を反映すると見なされていた自然主義的な音楽観と対置しています。しかし、グールドの作品では、現実と切り離された録音・編集によって作られた作品の背後に、編集を行うグールドという主体の存在が想定されているのに対し、初音ミクはデータベースから拾い上げられた設定の組み合わせに過ぎず、その背後に何の主体も想定されない点で、両者は根本的に異なっているとされています。
このような見取り図を描く際に、井手口さんは、東浩紀さんや大澤真幸さんの時代区分や理論を参照しています。*1
先ず、録音物=生演奏という自然主義的な前提が成り立っていた時代は1970年代までであり、近代=「理想の時代」になります。
次に録音物が現実と切り離され、グールドのようなそれを編集する主体と結びついた時代が、1970年から1995年の「虚構の時代」になります。
そして、「大きな物語」=音楽の背後に存在する主体がリアリティーを失い、データベースの設定の組み合わせによって、無数の「小さな物語」=キャラクターを基にした様々な二次創作が作られる時代が、1995年以降のポストモダンの時代であるとされます。
そして、井手口さんは、作者が作品を作る神として特別な存在だと見なされていた時代は終わり、編集したのは誰かは問題でなくなり、初音ミクというキャラクターが、不特定多数のユーザーが行う無数の編集を通じて、際限なくその姿を変えていく時代が、到来したと考えています。井手口さんによれば、「初音ミクとは、小説やマンガの領域で先行して生じたキャラクター的リアリティがついに音楽という領域にも進出してきた、その最初の例」であるそうです。(10頁)
*1:このような時代区分は、以下のブログで整理されています。http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20081030/p1
主体は、「初音ミク」ではなく、プロデューサーさん
井手口さんの論文には、コメントがつけられており、このやり取りも興味深いものです。井手口さんは、コメントの中で次のように述べています。
コメント者様は、「我々が初音ミクを聴くとき、その背後にはなにも存在しないことを十分に自覚している」という私の記述に対し、「寧ろ逆に、初音ミクを聴く人々は、その背後にグールドのように『編集の神』たらんとする多くの音楽愛好家がせめぎあっているさまを想像し」、「複数の演奏者/編集者のデータ編集という行為および彼ら/彼女らの相互交流の過程にこそ『リアリティ』が感知されるはずなのではないだろうか」と述べておられます。「なにも存在しない」というのは確かに言いすぎでした。そこには、データベースを編集する表現者がいます。件の新聞記事では、そうした特定の表現者(データ製作者)にスポットライトが当てられていました。しかし、この記事にみられるような特定の製作者に高い関心を寄せる姿勢は、実際に「初音ミク」を聴取する人々の間では主流ではないように思われます。
個人的には、おそらく上記の井手口さんの認識は、論文が公表された2008年初頭では既に古かったし、現状とはかなりかけ離れているのではないかと感じています。
初音ミクがニコニコ動画で支配的なオタク的想像力、つまりキャラクターを基盤とした想像力と親和性があったために大人気になったのは、間違いないことだろうと思います。初音ミクの心情を歌った曲が作られたり、様々な設定が生み出され、広がったり、他のVOCALOIDとの関係が想像されたり、派生キャラクターが大量に作られたり、3DCG を使った動画が作られたり、イラストが描かれたり、フィギュアが作られたり、ゲームになったりすることは、初音ミクが、データベースの核となるキャラクターとして捉えられているから生じたことだろうと思います。
ただし、純粋に初音ミクで作られた音楽に注目した場合、初音ミクのキャラクター性というのは、それほど重要ではないだろうと思います。初期には「leven polka」を使ったネタ的な曲や、「みくみくにしてあげる」のようなキャラクターの心情を歌詞にした曲など、初音ミクのキャラクター性に重点を置いて作られた曲が人気を博しましたが、そのような状況は既にかなり以前に終わっているように思います。
現在莫大なアクセス数を稼ぐ初音ミクの楽曲は、主に一部の有名プロデューサー(初音ミクを使った楽曲の作者)の楽曲です。たとえば、ryoさんの楽曲は発表されれば軒並み100万アクセスを越えますし、kzさんやOster Projectさん、暴走P、小林オニキスさん、トラボルタさんなどが新曲を出せば、瞬く間に10万アクセスを越えVocaloid殿堂入りするわけです。
彼らは元々全く無名でした。彼らがニコニコ動画で人気を博すようになったのは、単純に彼らの楽曲が多くの人々が魅力を感じるような優れたものだったからです。彼らの楽曲が多くの人々に受け入れられたのは、初音ミクのキャラクター性とはほとんど関係ありません。
初音ミクが発売されたばかりの時期には、まだ個々のプロデューサーの音楽性が判別できるほど、楽曲の数が上がっていないので、初音ミクのキャラクター性や個々の楽曲に注目を集まっていたのでしょうが、初音ミクを使った楽曲をランキングに何曲も送り込んだ一部のプロデューサーの固有名が、多くのリスナーによって覚えられ、多くのファンを獲得すると、次第にプロデューサー名で楽曲を聴く人が増えていきました。そのため、有名プロデューサーは、新曲を出すたびに莫大なアクセス数を集める状況が出来上がりました。
井手口さんは論文の中で、初音ミクを使って創作を行う作者の匿名性を強調していましたが、現在では、楽曲を公開した人はたいてい、自分でプロデューサー名を名乗りますし、匿名で公開したとしても、リスナーが勝手にプロデューサー名を付けてしまいます。そして、各プロデューサーは自分が制作した楽曲をマイリスにまとめるのが慣習になっていますし、もしプロデューサーがまとめなくても、リスナーが勝手にプロデューサー名でタグを作り、そのプロデューサーの楽曲を網羅的に集めてしまいます。
つまり、現在初音ミクを使って楽曲を公開している人は、基本的に識別可能な固有名を持っています。これは単に制作者自身が自分を楽曲の主体として提示したいと思っているからだけでなく、リスナーも個々の制作者が固有名を持つことを望んでいるからです。
ここでは、初音ミクというキャラクター自体は、それほど重要ではありません。有名プロデューサーが、初音ミクではなく、MeikoやKaito、鏡音リンやレン、がくっぽいどを使って楽曲を作っても、やはり多くのリスナーが聴きたいと思うわけです。多くのリスナーが重要視しているのは、「誰」が楽曲を作るかであって、どのようなキャラクターが楽曲で使われているかではありません。
つまり、初音ミクやVocaloidのリスナーの多くは、初音ミクやVocaloid を音楽以外の領域ではキャラクターとして捉える一方、音楽の領域では単なるDTM ツールとして捉え、その背後に固有名を持つプロデューサーの存在を見ています。このような音楽に対するリアリティの感じ方は、ポストモダン以前と何ら変わりません。リスナーは、初音ミクを使って作られた楽曲の背後に、固有名を持つ作者=神の姿を感じながら、楽曲を聴いているからです。
これは当然と言えば当然のことです。何故なら、実際に楽曲を作っているのは、ある特定の個人に他ならないからです。特に、DTMで作られた楽曲は、商業目的で作られた楽曲と異なり、作詞作曲、アレンジまで全て自分で行うことが多いために、より作者の姿が見えやすいと言えます。
初音ミクを使った楽曲で、キャラクターよりも楽曲自体が重要視されていることは、有名曲がすぐに「歌ってみた」で、生身の人間によって歌われることからも明らかでしょう。重要なのは楽曲の良さであり、初音ミクが使われていることではないからです。
初音ミクは、そのキャラクターとしての魅力で多くの人々の注目を集めましたが、人々が初音ミクというキャラクターに惹かれて集まり、楽曲を聴く段階になると、初音ミクのキャラクター性というよりは、楽曲の良し悪しの方が重要視されるようになります。そして、良い楽曲を作ったプロデューサーにはファンがつき、初音ミクに頼らなくても注目を集めることができるようになり、初音ミクというキャラクターから自立することが可能になって行くわけです。
ニコニコ動画は、本来非常に匿名的で、キャラクター的想像力と親和性が高いメディアですが、にもかかわらず初音ミクやVocaloid 界隈では、リスナーがキャラクターではなく楽曲の作者を主体として捉え、音楽を聴くことが支配的になったことは、音楽というメディアが、本質的にそれを制作する主体と不可分のものだと、人々が現在でも感じていることを示しているだろうと思います。
音楽以外の領域ではキャラクター的想像力が支配的になるが、音楽の領域ではキャラクター的想像力ではなく、モダンなリアリティが支配的になることは、当然といえば当然です。何故なら、音楽以外の領域で作られた作品は、初音ミクというキャラクターを使った二次創作ですが、音楽の領域で作られた楽曲は、たいていの場合、DTMツールとしての初音ミクを使った一次創作だからです。
そのため、初音ミクというムーブメント全体を見れば、井手口さんの論は現状を上手く説明できると思いますが、初音ミクを使った音楽をリスナーがいかに受容しているかを見た場合、余り上手く説明できていないのではないかと、私は感じました。
おそらく、キャラクター的リアリティが音楽にまで進出してきた例としては、初音ミクやVocaloidではなく、東方プロジェクトが適切なのではないでしょうか。私は未読ですが、「國文學」での論考では、このあたりの問題が扱われているのでしょうか。
このポストモダン的なキャラクター的想像力によってムーブメントが盛り上がったにもかかわらず、ムーブメントが進むに連れてモダンな自己表現を行う作者が復活するという点では、ニコマスも初音ミクとかなり似ているような気もします。
*「プロデューサーさんとアーティスト」で関連する話題を扱っています。
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