ぼかりすやV. Morishが何を引き起こすか

現在人間が歌った歌の特徴をデータ化するぼかりすなどの試みが始まっているが、これは歌い手の声と歌い方を分離させる。その際、歌い手の歌そのものは著作権で保護されるとしても、ものまねを見ても分かるように、歌い方が著作権で保護されるとは思えない。しかしものまねとは異なり、ぼかりすなどでは、歌い方のデータを検出し、それを別の声に組み合わせることができる。歌い方が著作権によって保護されないとすれば、人々はデータ化された歌い方を自由に使うことが出来ることになる。

現在UTAUや人力Vocaloidのようにユーザーが、自分が使いたい声を使ってソフトウェアに歌わせる試みが続いているが、今後技術が発達すれば、人間の歌とほとんど変わらない自然さでどんな歌でも歌わせることができるようになるだろう。たとえば宇多田ヒカルの声を使って、浜崎あゆみの歌い方で歌わせるということが、そう遠くない未来には可能になる。ユーザーの手によって、多くの歌手の歌声データがライブラリ化され(既にUTAUでは実現している)、さらに歌い方データもライブラリ化されれば、ユーザーは自分の好みの歌声と歌い方を選んで、自由に様々な歌を歌わせることができるようになる。

この技術は多分プロも使うことになる。現在は歌の下手なタレントの歌を音程を直すだけだが、今後は歌の上手い歌手にその曲を歌わせ、その歌唱データを使って歌の下手なタレントの声と組み合わせるということが生じるだろう。さらに言えば、一度声のライブラリさえ作ってしまえば、わざわざ忙しいタレントにレコーディングをさせなくても、スケジュールの抑えやすい無名歌手に歌わせれば、いくらでも音源を発売することが出来る。これにより、ノベルティソング制作は非常に効率的に行うことが出来るようになるだろう。

つまりぼかりすやV. Morishは全ての歌手をVocaloid化することで、事実上合成音声ソフトと人間の歌手の歌唱の境界を取り払うことになるのではないか。そして歌唱力は、録音音楽では意味を失い、ライヴでしか意味がなくなるだろう。ただし、ライブでも、本人には口パクさせ、録音版とは若干異なる歌い方で歌わせれば、生で歌っているように聴こえるだろう。その意味でVocaloid 技術の発展は、歌の意味を今後大きく変えていくことになるのかも知れない。


参考:「Vocaloid は、人間に近づく必要はない。

ポップスファンの教養主義の崩壊

メルマガ「パトス・ハメ」の「2. 対談連載 DJ TECHNORCH × 冨田明宏同人音楽』 第1回」の中で、以下のような一節がありました。

冨田:
昔から、島宇宙のような聴き方をする音楽ユーザーはいたと思うんです。ただそれは、いくつかの音楽ジャンルをある程度まで極めた、ヘヴィ・ユーザーのなれの果てでした。そのヘヴィ・ユーザーが個人で勝手に島宇宙化していて、他が寄りつけないような孤立した存在になっていると。

ただ今の島宇宙は、ライト・ユーザーの集合がメイン。それは恐らく、知りたい情報の一部分だけピックアップできる“ググる”が確立されて以降の音楽聴取文化=島宇宙化、という気がします。

気になったアンセムがあった場合、手に入れるためにアルバム一枚を 3000円出して買わなくたって、“ググって”視聴する、もしくはケータイで1曲ダウンロードすればいいわけで。しかもそのアンセム島宇宙の共通言語になっていると。

昔は、というか自分がレコード屋でバイヤーをやっていた頃は、「一ジャンル最低 50枚は揃えないとそのジャンルは語れない」とか、「そのアーティストの出しているオリジナル・アルバムすべてを揃えないとファンは名乗れない」とか、「前作との関係性から考えるとこの作品は名盤だ」とか、「パンクから政治性を抜いてしまったらパンクじゃない」とか、コアな音盤文化や、自己のアイデンティティと絡んだ音楽聴取文化が根強くあったし、今も地道にあるけど、それが恐ろしく前時代的なものになってしまった。

それは 90年代後半からすでに肌で感じていた状況ではあったのですが、今は当然、その状況が進行している。つまり島宇宙が無限に増えてしまった。ある意味では、すべての音楽ジャンルがアーカイヴ化されていると言っても良い時代……なのかな。

http://www.voltagenation.com/blog/?p=120


教養主義、つまり体系的な文化の享受が成り立たなくなったのは、音楽だけではないようですので、現代の文化一般に当てはまることなのかも知れません。