ヘンリー・ダーガーと非現実の王国

かつてアメリカのシカゴに、Henry Darger ヘンリー・ダーガーという男性が住んでいました。 彼は仕事はきちんとしていましたが、他の人とのコミュニケーションをほとんどとらず、一生孤独に暮らし、死んでいった人でした。彼の死後、大家の方が、彼の部屋で途方もなく長い物語と膨大なイラストレーションを発見した後、その作品の余りの特異性により、彼の名は、美術愛好家の間で一躍有名になりました。

彼が日本で最初に大々的に紹介されたのは、おそらく世田谷美術館で開催された日本最初の大規模なアウトサイダーアートの展覧会である「パラレル・ビジョン」だったろうと思います。私も色々な美術展を見ましたが、その中でも最も衝撃を受けた展覧会の一つです。私がヘンリー・ダーガーの名を知ったのも、この展覧会がきっかけでした。


当時はまだヘンリー・ダーガーも、余り有名ではなく、関連本も余り出ていませんでした。そのため私は、以前フランスでヘンリー・ダーガーの展覧会が行われたときに作られたフランス語のカタログを買ったものでした。しかし、その後日本でも何度かギャラリーなどで展覧会が行われ、日本語の画集も発売され、英語だと画集や研究書も結構出てくるようになりました。ヘンリー・ダーガーは、今ではすっかり(一部でですが)有名なアーティストになったと言えると思います。


私が先日ミュンスターの州立美術館の中にある美術書店に行ったところ、初めて見るヘンリー・ダーガーの本が売っていたので、思わず買ってしまいました。その本は、Michael Bonesteel の『Henry Darger. Art and Selected Writings』という本です。

ヘンリー・ダーガーの画集はすでに持っていたのですが、この本では、彼の書いた物語が大分載っているようなので買ったのです。この本はセール本で、元々99ユーロだったのが、29ユーロになっていました。


ヘンリー・ダーガーは、人とのつき合いがほとんどない孤独な男性でしたが、その彼が力を注いだのが、架空の世界を想像し、その中で起こる大戦争や大災害について、一万ページ以上に渡って書き続けることでした。

『非現実の王国として知られる世界におけるヴィヴィアンガール達と、子供奴隷の反乱から始まった、グランデコ−アンゲリニアン大戦争についての物語』と題された物語で、彼は、ヴィヴィアン・ガールと呼ばれる超自然的な力を持った少女達が、子供奴隷解放のためのカトリック諸国と邪悪なグランデリニアンとの戦争で大活躍する様を、延々と書き続けたのです。

彼は、少女に極度の関心を持っており、新聞、広告、雑誌などから子供写真を切り集めていました。彼は、『非現実の王国』でも、少女ばかりを登場、活躍させ、大人達と戦わせました。彼にとって、少女は、無垢の象徴だったらしく、ヴィヴィアン・ガールズと邪悪な大人達の戦いは、同時に善と悪の戦いでもありました。

彼は途方もなく長い物語を書き続け、その後物語を彩る挿し絵を自分で描き始めました。彼は絵の教育は受けていませんでしたが、彼が集めた様々な切り抜きを組み合わせる、コラージュ的な手法を使い、挿し絵を描いていきました。彼は絵の技術自体は全然持っていませんでしたが、画面構成能力は天性のものがあったようで、横長の巨大な画面に、多いときは数十人もの登場人物を配置し、広大な風景の中繰り広げられる、一大叙事詩を作り上げました。前述の通り、彼は、この挿し絵のおかげで、特異な美術家として知られるようになったのです。


しかし、絵に関してはすで展覧会や画集でその全貌が明らかになりましたが、彼の物語は、まだ概略が知られているに過ぎません。というのは、彼の書いた物語は、まだ刊行されていないからです。何しろ、彼の『非現実の王国』は途方もなく長いので、出版するにしても、容易ではないでしょう。スペルや文法間違いも多いようですし、校正するだけで、もの凄い手間が掛かるはずです。

しかし、もし英語で出版されても、余りにも膨大な量のために、私はとても全ては読めません。しかし、日本語に翻訳されるのは、まだ遠い先の話だと思います。にもかかわらず、私は、彼の書いた物語にも興味があるので、一部でも良いから、読んでみたいと思うのです。


彼は幼い頃に施設に入れられ、そこから逃亡してから、ずっと孤独に暮らしてきた人で、とても恵まれた人生を送ったとは言えない人です。そのような状況の中で、彼は、教会と物語に没頭していきました。まるで、彼の現実世界の人生は影のようなもので、『非現実の王国』で生きている時の方が、自分の本当の人生であるかのように。彼は、明らかに現実逃避をするために、架空の世界を描き続けたのですが、にもかかわらず彼の物語の中にも、現実世界の苦悩が入り込み、その二つは不可分に結びつけられてしまいます。そのため、彼の物語は、現実に生きる限り、そこから逃れようとしても、逃れきることはできないことを示しているようにも感じます。

私は、あそこまで架空世界に没頭し、現実逃避をしながら生きたヘンリー・ダーガーのことを少し羨ましいと思うと同時に、ファンタジーにあそこまでの執着をせざるを得なかった彼の心の中を考えると、複雑な気持ちにさせられるのです。私にとってのヘンリー・ダーガーは、フェルディナンド・シュヴァルと並んで、作品だけでなく、生き様にも心奪われてしまうアーティストの1人です。

と、思ったら、なんとヘンリー・ダーガーの生涯が映画になるようです。これは凄い。絶対に見たいです。