連載(1) ドイツポップスの奇跡

今回から連載で、ドイツポップスの紹介を始めようかと思います。第一回目は、ドイツ語ポップスニューウェーブについてご紹介します。

ドイツ語ポップスニューウェーブというのは、2003年Wir Sind Helden ヴィア・ズイント・ヘルデンの大ヒットを先駆けとして、2004年にドイツ語で歌うアーティストが続々と大ヒットを飛ばすようになった、ドイツ語で歌うわれるドイツポップスのブームのことを言います。実は、このブームは、特に決まった呼び名があるわけでもないのですが、一応便宜上ここではドイツ語ポップスニューウェーブという名称を使っておこうと思います。


何故、ドイツ語のポップスがヒットするだけで、これほど騒がれるかというと、英米のポップスの影響が非常に強いドイツでは、従来ドイツ人のポップミュージシャンも、英語で歌うのが主流だったからです。

そのため、今回のブームは、ドイツのポップスシーンにおいて二重の意味で驚きでした。先ず第一に、ドイツのポップスが非常に売れたこと、第二にそれに加えて、ドイツ語で歌われたポップスが非常に売れたことです。


私の個人的な説明は、次回に回すとして、今回は、フランクフルター・アルゲマイネのインターネットサイトに掲示されていた記事を紹介することにします。この記事は、ドイツ語ポップスブームについて上手いことまとめて紹介していた良記事だと思ったので、全訳し、ご紹介することにします。この記事を読めば、ドイツでこのブームがどんな感じで捉えられてるかが、だいたい分かると思います。

翻訳の紹介に先立ち、一応フランクフルター・アルゲマイネの方に、許可を求めるメールを出したのですが、返事は来ませんでした。そのため、一応黙認という解釈をして、掲載することにします。著作権的にマズイというご指摘があった場合、すぐに削除いたします。また、何分ド素人の訳ですので、表現がこなれてない部分、あるいは誤訳が沢山あると思います。だいたいの内容が分かれば良いぐらいというレベルの訳なので、どうぞ寛容な気持ちで読んでいただければと思います。


ドイツポップスの奇跡。FAZ、2005年1月11日掲載。


Bautzen バウツェン出身のその若いバンドのサンプル録音の入ったデモCDは、最初は何日もの間ヨアキム・ブラウンの机の上に放り投げられていた。旧東ドイツ出身の法律部門の同僚女性が、ミュンヘンへの個人的な帰省の際、ベルテルスマンの音楽部門であるBMG の新人発掘担当者にこのテープをもたらした。ブラウンは当時、2003年半ばにようやくそのテープを聴いてみた。そしてそれは、おそらく彼のビジネスライフで最良の決定だった。何故ならこの音楽マネージャーは、金の鉱脈に突き当たったからだ。Silbermond ジルバーモントの心痛むようなバラード「Symphonie ジンフォニー」は、そうこうしているうちに絶え間なくラジオで流れるようになった。ようやくメンバー全員が20歳になったこの後続バンドのファーストアルバムは、7月以来40万枚以上を売り上げている。「このアルバムは2004年に、最も成功したドイツでの我々のリリースでした。」ブラウンは語った。

金の鉱脈を探す気分は、BMG だけに広がっているわけではない。ジルバーモントのような成功物語については、今の時代、語ることが沢山ある。ストーリーはいつも同じだ。つまり、ドイツ語で歌う若いバンドが、最終的にレコード契約を勝ち取り、大ブレイクを果たすのだ。この道をリードするのは、音楽コンツェルンのEMIで、彼らはベルリンのグループWir Sind Helden ヴィア・ズイント・ヘルデン(「Denkmal デンクマル」)で、2003年夏に大ヒットを飛ばした。1年半後、ドイツのポップミュージック界には契約を得た多くの若い後続アーティスト達であふれているように見える。事実上全ての大音楽コンツェルン(メジャー)が、ドイツポップスの商いを大いに行っている。ユニバーサルは、ギーセンのメインストリームバンドJuli ユーリ(「Perfekte Welle パーフェクテ・ヴェレ」)と契約し、ソニーミュージックシャンソン・ロリータなAnnette Louisan アンネッテ・ルイザン(「Ich will doch nur spielen イッヒ・ヴィル・ドッホ・ヌア・シュピーレン」)とレトロポップなMia ミア(「Hungriges Herz フングリーゲス・ヘルツ」)で稼ぎまくった。Klee クレーTele テレVirginia Jetzt! ヴァージニア・イェツト! のような そこまでは人気のないグループ自身、そうこうしている間にさらに注目されるようになった。そしてライヴでも、後続バンド達は成功を祝っている。成功者達の多くは、膨大なコンサートツアーで全ドイツを横断している途中だ。


おいしいスープの中の水

数はそれ自体語る。市場調査会社GfK は、いつの間にか再び主にドイツ語で歌われるようになった国内のポップミュージックが、7.6%売り上げを伸ばしたことを証明した。これにより、ドイツポップスは、録音盤市場で唯一成長したジャンルとなった。全体としては、CDの売れ行きはさらに下がっている。大音楽コンツェルンの中では、とりわけユニバーサルとBMG は、国内のアーティストによって甘い汁を吸った。

さらにどれだけドイツポップスの繁栄が続くかは、もちろん不確かだ。音楽産業は、より多くの皿を売るために、おいしいスープにひしゃくで水をぶちこみ、まるで違うものにしてしまう金に賤しいコックのように、お決まりな振る舞いをしている。最後には、薄いスープをうまいと思うものはいなくなってしまう。昔から、売れるものは、増え続ける似たようなバンドの似たような音楽に、客が飽き飽きするまで、音楽会社によって真似されるのが常だ。今の「ヘルデン」「ユーリ」「ジルバーモント」のようなグループが似ているのは、明らかに偶然ではない。「成功の方程式。つまり、女の子1人と男の子がやるパワーポップは、かつてのNena ネーナと同じように、もうそろそろです。」ユニバーサルドイツの前のトップだったTim Renner ティム・レンナー はそう警鐘を鳴らす。

もし上手く行かなければ、実際に80年代初めの「Neuen Deutsche Welleドイツニューウェーブと同じ事が起こるだろう。当時は、ネーナAndreas Dorau アンドレアス・ドラウIdeal イデアルのような様々なバンドが、成功を祝っていた。「最後には、もしギターを抱えられて、3人の脇で木の上にいなかった(訳注: この部分は良く意味が分かりませんでしたが、おそらくステージ上に立っていられればそれで十分ということを表しているではないかと思います)全てのバンドは、(訳者の補足: レコード会社と)契約することができるようになりました。」すでに長い間、小さなハンブルクシーンのレコードレーベルL’age-D’or Tocotronic トコトロニックDie Sterne ディー・シュテルネ)で働いているCarol von Rautenkranz カール・ファン・ラウテンクランツは、その頃のことを思い出す。80年代半ば、ドイツポップミュージックの売り切れに続いたのは二日酔いだった。


供給過剰の結果

今のドイツポップスのカムバックは、おそらくかなりの程度、この前の供給過剰、つまり昨年のテレビスターの流行の結果と同じだろう。2003年には、Alexisander Klaws アレキサンダー・クラウスBrosis ブローシスのような英語で歌うアーティストがチャート番組を席巻した。それらの番組は、強烈なテレビの存在のおかげで「ドイツはスーパースターを探している!」などのオーディション番組で、短い間に途方もない成功を得た。しかし、RTL などの放送局がベルトコンベア式に放映した、工場で急いで製造されたメディアの産物は、ほとんど全て流れ星のままだった。「ヘルデン」の成功以来、振り子は反対側に振れた。「人々は、また手作りの音楽のクオリティーとオリジナルを求めるようになりました。」Heunz Canibol ハインツ・カニボルは言う。EMI ドイツの前トップは、今はソニー・ミュージックが出資するミニレーベル「105」を率いている。カニボルの若きスターアンネッテ・ルイザン は、今成功している他のドイツのミュージシャンの大半と同様に、自分の曲を自分で書いている。プロデューサーやテレビ番組によって作られたバンドはない。その代わり、ミュージシャンが、リハーサル・スタジオで理解し合っている。

「最も重要なのは、ドイツ語だということだ」、というのが標語である。「もしある若いバンドがメジャーレコード会社と契約したければ、彼らにはドイツ語で歌うように勧めますよ。」L’age-D’or の社長ラウテンクタンツ は言う。「ドイツ語の歌詞がラジオで掛かる機会がなかったのは、そんなに前の事ではありません。」ユニバーサルのドイツポップ部門の部長であるJohannes Cordes ヨハネス・コルデスはそう記憶している。


「メジャーには、協力者がいない。」

楽観主義者は、「音楽コンツェルンは、以前より賢くなった」と言う。少なくとも、この希望には全く根拠がないというわけでもない。皮肉なことに、これらのコンツェルンが昨年ドイツポップ部門で急にみんなで立ち止まった状況は、ドイツ語ポップスにとって得だったということが明らかになった。常に破滅の元となる過剰生産は、単に資金不足によって避けられているのである。「メジャーには、大半は解雇されるドイツのアーティストを世話するための協力者がいません。」ラウテンクランツ は言う。そして、経済的に今もまだ危なっかしい足で立っているレコードコンツェルンが、ドイツポップスを市場に過剰供給するために、すぐにまた猛烈に投資することは、いずれにせよありえそうにはない。

ドイツポップの復活が束の間のものにとどまるかどうかは、多分かなり早く示される。つまり、後継バンド達が、大成功を収めた二枚目のアルバムを発売したときに。緊張を持って期待されているヴィア・ズィント・ヘルデンのニューアルバム「Von hier an blind フォン・ヒアー・アン・ブリント」は、この春にお目見えするそうだ。

(C) F. A. Z. Electronic Media GmbH 2001-2005

Das Deutschpop-wunder von FAZ, 11. 01, 2005