ミヒャエル・ハネケ監督『ピアニスト』

あの映画史上最も不快な映画(であろう)『ファニー・ゲーム』を撮った、ミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』を観ました。

『ピアニスト(LA PIANISTE)』というタイトル、そしてカンヌ映画祭グランプリと聞くと、ずいぶん高踏的な映画かと思わされますが、さすが『ファニー・ゲーム』と撮った監督だけあって、とんでもない内容の映画になっています。

物語は、母親に行動の自由や性的欲望を徹底的に抑圧されてきた中年の音大女教授が、若い学生に熱烈に愛されるうちに、自分の隠された欲望の充足を求め、実際にそれが叶えられるという話です。

この主人公は、まともな恋愛や性行為を徹底的に禁じられてきたため、性癖が極度に歪んでしまい、ポルノショップで、見知らぬ男性の精液の付いたティッシュのにおいをかいだり、屋外の車内で性行為に及んでいるカップルを覗いたりすることを日課としています。

この映画は、母親のせいで、この女性がいかに性的、そして人間的に歪んでしまったのかを、全く情け容赦なく描いており、私は観ている間、主人公の行動の余りの痛々しさに、観るのが辛くなってくるほどでした。

彼女は、年下のハンサムな若者から愛され、彼と性行為をしようとするのですが、彼女は、余りにも長い間性的な妄想に耽りすぎたせいで、普通の性行為を欲望する事ができません。そのため、お互いに愛し合うという関係ではなく、性行為にも、支配、被支配という関係を持ち込みたがるのです。もちろん、彼女が、愛に支配、被支配関係しか見いだせないのは、彼女の母親と彼女の間には、愛情の擬制の下での、支配、被支配関係しかなかったからに他なりません。

そのため、彼女は大変気の毒な人だとしか言いようがないのですが、劇中ではかなり性格の歪んだ、感じが悪い人として描かれているため、映画を観ていても、余り同情的な気持ちにはなりません。相変わらずハネケ監督は、彼女のみっともない姿を、突き放したような冷たい視点から撮っており、観客に彼女への理解や同情を促さないのです。

『ファニー・ゲーム』もそうですが、ハネケ監督は、余り快くない現実を、ドライに描くことが本当に好きなようです。彼は、余り面白い画面は作らず、長回しなどはしますが、それほど変わった手法を使いません。むしろ、非常に禁欲的な撮り方をする監督ではないかと思います。ただ、音楽を余り使わないこと、カメラを余り動かさないこと、ショットを余り早く切り替えないこと、画面の質感を余りいじらないことなどは、彼の作品に、一種静的な冷たさを与えていると思います。

私は、まだ二作品しか彼の作品を見ていないので、何とも言えませんが、おそらく彼は、かなり倫理的な人なのではないかと思います。彼は、現実の残酷さを、非常にドライに描きますが、それは、彼が根底の部分で、そういういった現実を嫌悪し、怒りを感じているからではないかと思います。だから、あれほど人を不快にさせるような映画を作るのではないでしょうか。つまり、現実というのは、このように残酷で、不快なものなのだという自分の現実に対する感覚を、観客にも共有させるように。

この映画の最後の場面では、主人公が若い恋人に求めたことを、実際に実行されます。つまり、母親の前で、彼に殴られ、蹴られ、その後犯されます。彼女が自分からこのようなことをしてくれと、彼に頼んだので、彼は最初嫌がったにもかかわらず、意を決して、言われたとおりのことを実行したのです。しかし、妄想と現実は大違いで、彼女は彼に何度か殴られた時点で怯えきってしまい、とても性交するどころではありません。にもかかわらず、殴られて力無く床に横たわっているところを、無理矢理入れられてしまいます。

彼が彼女の上で喘ぎながら動いている間、彼女は全くの無表情無反応で、カメラはその様をフィックスで長々と映し出します。当たり前の話ですが、暴力を奮われ、意に反して犯される際に性的に興奮するというのは、ポルノなどのフィクションでしか起こらないでしょう。実際には恐怖や嫌悪感で、とても性交をするような気分にはならないはずです。ですから、彼女は、妄想に基づき望んだことを実行されたとき、その身も蓋もない現実を、自分の身をもって知らなければならなかったわけです。そして、その身も蓋も無さを観客に感じさせるために、フィックスの長回しという客観的な描写の仕方で、一人で興奮している彼と、全く無反応の彼女の対比を、延々と見せ続けるのです。

この後のラストシーンがまた、とんでもなく身も蓋もなく、残酷なのですが、それがどのようなものかは、実際に観ていただいて、確かめていただければと思います。見終わった後、何とも言えない気分になることができようかと思います。

この映画は、物語やテーマに関しては、ありきたりとは言いませんが、それほど珍しいものではないような気がします。しかし、ハネケ監督のドライな描き方によって、大変な傑作になっていると思います。しかし、こんな映画をカンヌの大賞にするというのはチャレンジャーですね。この作品は、何も知らないで観た人のほとんどは、観た後で、非常に不快な気分になって、観たことを後悔するような、大変素晴らしい作品だと思います。


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