<講演「文化芸術こそが多様化社会の "社交術" を鍛える」 平田オリザ

非常に有名な劇作家の平田オリザさんの講演が行われました。この日の講演の内容を一言で言うと、色々な人々が共に生きなければならないこれからの社会では、必ずしも分かり合えない人たちが、対話しながらコミュニケーションを行っていかなければならない、そしてその際に演劇は非常に有効な手段となるのではないか、というようなものでした。

平田さんは、大阪大学コミュニケーションデザイン・センターで教えているということです。今後は、医学部や法学部でもコミュニケーションデザインの講義が必修になるかもしれないということで、もしかすると演劇を学んばないと医者や法曹になれないことになるかもしれないそうです。

では、コミュニケーションデザインとは何かといえば、コミュニケーションを促進させるデザインすることだそうです。たとえば、患者さんが不安を抱かないような椅子の配置や壁の色をデザイン=環境を作ることだそうです。

平田さんは、これまでに数百回もあるワークショップを行っているそうです。そのワークショップは、AさんとBさんが話し合っているときに、Aさんが初対面のCさんに話しかけるかどうかをたずねるというものだそうです。この時の反応には、国によって大きな違いがあるそうです。オーストリアでは、人種によって話しかけるかどうかを決める、アメリカの特に西部では相手に敵意がないことを示すために誰にでも話しかける、韓国では年齢によって敬語が違うので、合ってすぐに年齢を聞くそうです。

アイルランドはパブの文化があるので、全員が話しかけるけれども、お隣イギリスでは、余り話しかけず、特に上流階級は、誰かに紹介してもらわないと話しかけてはならないという文化があるそうです。日本も、相手との関係によって言葉が変わるので、知らない人に話しかけにくく、大半の人は話しかけないということです。今回の会場でも、同様の結果でした。

このように日本では、初対面の人にほとんど話しかけないので、演劇で、「旅行ですか?」と話しかける場面があった場合、単純な台詞でも、日頃使わないので、役者はなかなか上手く演技できないそうです。台詞を言うときには、コンテクストを理解して、表現しなければならないので、見知らぬもの、見知らぬ状況を表現する場合、コンテクストがつかめず、困るそうです。

日常でも、相手の真意を理解するためには、コンテクストを理解することが重要だそうです。たとえば、患者が何度も繰り返し「胸が痛い」と言ってきた場合、ベテランの看護婦さんは、「無縁が痛いの」とオウム返しをするそうです。これは、相手が伝えたいことが「胸が痛い」ということそのものではないことを、自分は理解しているというシグナルを相手に送ることなのだそうです。

役者が「旅行ですか?」という台詞を上手く言えないと、演出家は怒って、上手く言わせようとします。しかし、その時、この原因は非日常的な台詞そのものにあることが隠蔽され、権力によってコンテクストが一方的に押しつけらることになるそうです。これまでの演劇では、演技が出来ないのは役者の責任と見なされてきたが、受け手にも半分責任があると平田さんは考えているそうです。

つまり、コミュニケーションを行いやすい環境が重要だそうです。実際、優秀な企業では、会議のやり方を色々用意して、意見を出しやすい環境を用意しているのだそうです。

日本では、全体の1%くらいの人が、椅子を腰掛けと呼ぶのだそうです。また、トンカツは、関西の一部ではヘレカツと呼ばれるのだそうです。呼び方は地域によって異なり、このコンテクストに違いはナショナリズムと結びついているので、自分が自明だと思っているのとは違う呼び方には、非常に違和感を感じるのだそうです。

日常では、このような違いは問題にはなりませんが、演劇だと問題になるそうです。たとえば、高校生は日頃マクドナルドではなくマックと呼ぶので、台詞の中の「マクドナルド」を上手く言えないのだそうです。また、「〜ね」という表現は関西では余り使わないので、関西の役者はコンテクストが分からず、上手く言えないそうです。しかし、コミュニケーションギャップが原因で上手く行かないのに、普通は演出家は役者のせいにするそうです。しかし、このギャップは、権力を持っている側が直さないと、解消されないのだそうです。

そんとあめ、演劇では、コミュニケーションギャップの摺り合わせが日常的に行われており、そのためのノウハウを豊富に持っているそうです。そして、平田さんは、このノウハウは社会全体にも必要なものではないかと考えているそうです。

コンテクストを否定されることは非常に傷つくことなので、お互いにコンテクストを摺り合わせることが必要だということです。しかし、普通はこれは非常に長い時間が必要で、例えば夫婦などは数十年かけて行います。

平田さんは、以下のような時代認識を持っているそうです。今の社会は高度経済成長期のかつてとは異なり、共通の目標は失われた。そのため、個々人が、自分で色々なことを決定していかなければならない。これまでは誰かが決めたことにそのまま従っていればよかったが、今後はバラバラな人間同士が、社交的につき合っていかなければならない。

もはや日本人は、心から分かり合うことはできない。今後、分かり合えるという前提からはじまる協調的なコミュニケーションから、互いに良く分からない人間同士が上手くやっていく社交的なコミュニケーションへと変化せざるを得ないというのが、平田さんの予想です。

OECDの国語試験で、日本は以前の8位から13位に落ちたそうですが、これは、この国語の試験の性格がグローバルコミュニケーション、つまり異なった文化を持つ人たちに自分たちを主張するという点を重視したものなったからなのだそうです。この試験で高得点を取ったのはフィンランドノルウェーのような小国ですが、これらの国はEUの大国に押しつぶされないように、自分たちの文化を守り、主張しなければならないので、それに合わせた教育をしてきたそうです。

東京の大久保小学校では、かなりの生徒の親の片方が外国人なのだそうです。そのため、モデルケースとして、非常に優れた日本語教育が行われたそうですが、副作用として、子供が親より日本語が上手くなり、親を馬鹿にするようになる例が続出したそうです。そのため、そうならないように、多文化教育を行うようになったそうです。

従来の日本の文化が、分かり合う文化、ハイコンテクストの文化であったのに対し、ヨーロッパの文化は説明し合う文化なのだそうです。しかし、分かり合う文化を持つ国は少数で、他者とコミュニケーションすることが必要とされる国際社会では対話が必要なのだそうです。

演劇では、対話が必要なので、対話能力を育てるのに役に立つと平田さんは考えているそうです。人類史上初めて民主主義が生まれた古代ギリシアでは、異なる考えを摺り合わせるための手法として哲学と演劇があったそうです。演劇への出席は、市民の義務であったそうです。平田さんは、共同体を維持するために、同じ演劇を見て、完成の摺り合わせを行っていたのではないかと考えているそうです。

日本では、もう地域共同体は崩壊しましたが、社会のネットワークを作るために演劇、芸術文化が使えるのではないかという提案で、講演は終わりました。




以下、後で書きます。