アウトサイダーアートについて徒然

昨日、アウトサイダーアートについての記事をクリップした際に、簡単な私感を加えたところ、思いがけず反応を頂きました。そのため、浅学ながら、再び私感を書くことをもって、返答させていただきたいと思います。


>ngmkzさん

「生(き)の芸術=Art Brut≒Outsider Art」が、生(なま)であるのは、その表現がひどく個人的で、社会を意識したもの(=個人の集まりがその共存の為に作り上げた「主現実(という虚構)」の中にそれを起こし「主現実」の範囲を拡張しようというもの)ではなく、「隣接現実*2」と言う本来は個人の生きる上で他者と自己の決定的な認識の差異の中で生じるからだと思う。

世界のど真ん中な端っこで酷くプライベートな崇高な行為を、静かに貴んで見守るような態度を

このような考え方に則れば、おそらくは、たとえばアニメが大好きな人が、自分の好きなアニメに耽溺し、自分の好きなキャラクターを延々と描き続けることは、アール・ブリュットの作者の内面と同じであると考えられるでしょう。彼は、無償で、社会的欲求によらず、ただ好きな絵を無邪気に描いているだけだからです。

しかし、アマチュアの作る作品というのは、本来そういうものでしょう。しかし、彼らの作る作品のほとんどはアウトサイダーアートとは見なされません。何故かというと、用語の定義上、アウトサイダーアートは、既存の美術様式の影響を受けていないものと見なされているからです。

このことは、アウトサイダーアートが、本質的には作者の制作意図ではなく、作品の様式に基づいた概念であることを示しています。作者が、どんなに純粋に自発的な表現欲によって作品を制作しようと、その人の作品が自身にとってどれほど実存的に重要な意味を持っていようと、それがアウトサイダーアートだと見なされるような表現様式を伴っていなければ、それはアウトサイダーアートではありません。ヘンリー・ダーガ−のような人が、数十年にわたって誰にも知られることなく作品を作ったとして、その作品が、かわいらしい子供のイラストならば、それはアウトサイダーアートだとは判定されないでしょう。

「職業美術家」であるならば、やはり作者自身が肯定されるそれ以前に作品や表現が批評を受けるべきで、パーソナリティが批評の台上の上がることは考えられないのでは?

そのため、これは、職業美術家だけではなく、アウトサイダーアーティストにも同じ事があてはまるのではないかと思います。ちなみに、職業美術家でも、パーソナリティーが原因で人気が出ることもあれば、人気が出た後、パーソナリティーに注目が集まることもあろうかと思います。

そのため、アウトサイダーアートは、作者の内面や履歴によって判断されるものではないことになろうかと思います。

このように、アウトサイダーアートだと判定されるためは、既存の美術様式と似ていないことが求められます。では、既存の美術様式に似ていない作品とは、どのようなものでしょうか?個人的には、そんなものはもう存在しないと思います。単に作品の様式を考えれば、アウトサイダーアートだと見なされるような作品を、商業美術家が制作することは、大いにあり得ることでしょう。

そもそも、アウトサイダーアートは、現在の美術のマーケットで売れるから成り立っているのであり、そのことは、そのような作品を職業美術家が制作すれば、同様に売れるだろうことを意味しています。作品の様式だけ見た場合、おそらくもうアウトサイダーアートと職業美術家、あるいはセミプロの境はないのではないかと、個人的には思います。

また、職業作家だからといって、既存の美術の潮流からは余り影響を受けていない人もいることでしょう。もちろん、そういう人は、余り美術家として商業的成功はしないでしょうが、自分の作品が売れなくても、過去の様式や流行に左右されず、鉄の信念を持って、自らの内側から沸き上がる創造性だけを頼りに作品を作り続けている人は多々いるでしょう。しかし、単にプロを目指しているというだけで、彼らは決してアウトサイダーアーティストではあり得ません。

そのため、アウトサイダーアートは、単に美術的な様式でもないことになります。

では、同じ様な絵が並んでいたときに、何がアウトサイダーアートで、何がアウトサイダーアートではないと見なされるでしょうか。それを判断するのは、おそらく作者のプロフィールになるのでしょう。つまり、作者が全くの素人だったらアウトサイダーアート、美術教育を受けていたらそうではないと。つまり、アウトサイダーアートの判定には、作者の周辺情報が必要不可欠になります。

そのため、アウトサイダーアートは、美術様式とプロフィールの両方が揃って、はじめて判定されることになると思います。

では、もし誰か職業美術家が、有名で人気のあるアウトサイダーアートの作品を徹底的に分析し、いかにもアウトサイダーアートらしい作品を制作し、美術教育を受けていない神経症の患者だとプロフィールを偽って、人づてにアウトサイダーアートを扱う画廊の主人に絵を見てもらった場合、どうなるでしょうか。その作品は、おそらく高い確率で、アウトサイダーアートであると判定されるだろうと思います。

このように、本来美術様式と作者のプロフィールは一対一対応にならないはずですが、それが結びつけられているのは、おそらくデュビュッフェが、作品の様式と内面は不可分の関係にあると思っていたからなのでしょう。

これらの思考実験をふまえると、アウトサイダーアートという概念は、恣意的で、あやふやであると見なさざるをえないのではないかと思います。そもそも、作品から作者の内面が分かるとは限りません。逆にプロフィールが、作品の様式と不可分であるとも言えません。それは、単に外野が勝手に想像するものであり、勝手に決めつけるものです。そのため、「芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」が何かを判定するための確固とした基準はないでしょう。

個人的には、用語や概念があやふやであったり、不完全であることは、その用語が一つの目安として機能することと比べれば、些細なことだとも思っています。色々書きましたが、アウトサイダーアートというのは、非常に便利な用語で、大変有用だと思います。

しかし、ダーガーがいつの間にか犯罪者や精神異常者のような扱われ方をしていることからも分かるとおり、アウトサイダーアートという概念は、話を面白おかしい方にねじ曲げるために、より恣意的に使われる傾向があると思います。特に、「ロマンティックな狂気」*1を楽しみたい、という欲求を満たそうという方向に。そのため個人的には、用語がそもそも持つ恣意性や不完全さをふまえながら、より慎重に用語を使っていくことが重要になるのではないかと思っています。


ロマンティックな狂気は存在するか (新潮OH!文庫)

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*1:ちなみに私は、『ロマンティックな狂気は存在するか?』は読んでいません。