「ミスター・ピリペンコと潜水艦」山形国際ドキュメンタリー映画祭2007

山形国際ドキュメンタリー映画祭2007 に行ってきました。私が見てきたのは、次の映画です。

ミスター・ピリペンコと潜水艦 Mr. Pilipenko and His Submarine

ドイツ/2006/ロシア語、ウクライナ語/カラー/ビデオ/90分
監督:ヤン・ヒンリック・ドレーフス、レネー・ハルダー Jan Hinrik Drevs, René Harder

ウクライナでは不可能を意味するとき「草原にある潜水艦のようだ」と言う。ウラジーミル・ピリペンコはウクライナの小さな村に住む、62才の年金生活者。潜水艦を作って黒海に潜るのを30年間夢見ている。密かに貯めた年金を使い、古い部品や金属を集めて潜水艦作りに精を出す。しかし、妻からはぞんざいに扱われ、村人からは嘲笑される。それでもあきらめずに潜水艦をおんぼろトラックに乗せ、大草原を進み、400km先の黒海で勝負にでる。ピリペンコは不可能を可能に変えることが果たしてできるのか? 男のロマンを追い求めたアドベンチャームービー。

インターナショナル・コンペティション


上の説明のように、この映画は、ウクライナの農村に住んでいるピリペンコさんは、自分の農家の納屋を工場にして、20年間ほぼ独力で潜水艦を作り続けた人です。ピリペンコさんは、黒海の海中を潜水艦から眺めることが長年の夢だったそうで、コツコツと長い時間をかけて潜水艦を作ったのだそうです。潜水艦というのは高度な技術が必要とされる機械なので、何の知識もない個人が独力で作ろうとはなかなか思わないものですから、ピリペンコさんのような試みは非常に際だつことになります。

基本的に彼が行ったことは、フェルディナンド・シュヴァルが理想宮を建てたこととほとんどいっしょです。つまり、他の人には突飛に思えるようなことを、鉄の信念でやり通してしまうということです。ピリペンコさんは、作り始めた当初は他の村人から、もっと役に立つものを作った方が良いだのと色々揶揄されたそうですし、奥さんは乏しい年金まで潜水艦につぎ込むのは止めろと文句を言われたりしますが、そんなことにはへこたれず結局潜水艦を完成させてしまいます。

この映画が描くのは、潜水艦がほぼ完成し、村の池でテスト航行をした後、念願の黒海での潜水を実現されるまでの時期です。この映画では、潜水艦だけでなく、魚の養殖や家畜の世話などのピリペンコさんの日常生活と、ピリペンコさんと家族、友人、村人、親族などとのやり取りも描いています。この映画では、潜水艦とは直接関係がないような場面も多々挿入されているので、観客には、潜水艦作りは彼の生活の極一部に過ぎないと言うことが感じられようになっています。その意味では、潜水艦制作そのものというよりは、ピリペンコさん個人のパーソナリティーに注目が集まっている映画になっています。

他方、この映画では、この映画が扱う時期、つまり黒海での潜水の前の6週間以前のことは、ほとんど説明されていません。一応、人々の語る言葉の端々から、基本的なことは分かるのですが、ピリペンコさんが潜水艦を作ろうと思った動機や、過去の村人からの揶揄や奥さんとの戦いや、潜水艦を作る過程で起こったであろう様々な困難とその克服の歴史などは、この映画でほとんど描かれていません。そのため、この映画からは、この潜水艦製造の全体像が分かるというわけではありません。描かれているのは、あくまで最後の6週間のことだけです。

これは、おそらく、監督が、動機や過去の出来事を掘り下げることよりも、ピリペンコさんを取り巻く状況をそのまま物語として見せることを優先させたからではないかと私は感じました。

この映画ではナレーションによる説明はほとんどなく、基本的にカメラで撮影された映像をそのまま繋ぐかたちで映画が進んでいきます。そのため、この映画では、ドキュメンタリーを撮っているカメラや演出をしている監督の影を、観客が余り意識しない作りになっています。このことは、作品内の審級が、最初から最後まで変わらず、一貫していることを意味しています。

普通のドキュメンタリーではナレーションやインタビュー、字幕スーパーなどによって、映像そのものからは読みとれない様々な情報を観客が知ることができるようになっています。この場合、生の現実を切り取った映像とその上に人の手によって被せられるナレーションや字幕との間には、(編集で切り取られてはいるものの)生データと装飾物という審級の違いが存在します。これによって、観客は常に生データを加工している演出家の存在を、無意識のうちに感じざるを得ません。

他方この映画にはナレーションなどの補足の説明は加えられていないので、観客から見れば映画は最初から最後まで生データのみによって構成されるように感じられます。この審級の一貫性は、全編が虚構という単一の審級によって構成されている普通の劇映画にも当てはまります。そのため、この映画は、生データのみによって構成される物語という色合いが強く、普通のドキュメンタリーよりも、より普通の劇映画を見たときの印象に似ているように感じました。

おそらく、監督は、より観客を物語世界に没入させるために、このような審級の一貫性を使ったのだろうと思います。そして、個人的にはその試みは上手く行ったと思います。過去の経緯や周辺状況に関する情報が必ずしも十分ではなく、ピリペンコさんのキャラクターの掘り下げもそれほど行われない代わりに、観客は、劇映画を見ているときのように演出家の存在を意識せず、画面上の出来事に感情移入し、物語に集中することができます。この映画は非常に見やすく、面白い映画でしたが、単に題材そのものの面白さだけではなく、語り口の巧みさによるところも大きかったと感じました。

私などは逆に、画面に演出家の姿を出さないための工夫、つまり脚本の存在や再現映像による演出意図の貫徹のような作為を感じることもあったのですが、実際にはそれほどでもなかったようです。

個人的に映画を観て面白いと思ったのは、ピリペンコさんが、普通のおっちゃんだったことです。20年も独力で潜水艦を作る執念と根気は普通ではありませんが、彼本人は至って普通の人で、別に家族や親族の中でも、村の中でも孤立することもなく、上手くやって行っています。最初は色々言われたようですが、結局潜水艦のテスト航行の際には興味を持った子供が追いかけてきたり、親族が沢山集まって、見守ったり、助けたり、いっしょに祝ったりするなど、周りの人たちにもある程度認められ、面白がられている感じでした。

ピリペンコさんを見ると、他人から理解できないようなこだわりや信念を持って何ごとかを偏執的にやり続ける人が、必ずしも変わり者や病気ではないことが良く分かります。そのような個人的な偏執は、多かれ少なかれ誰にでもあることでしょう。

ピリペンコさんの潜水艦「イルカ号」は、二人乗り用の小さなものです。感じとしてはゴーカートを一回り大きくしたような大きさで、色は緑と青、かたちがまるっこいのでかわいらしいです。手作りですが、一応水中を地力で航行し、潜行も浮上も可能です。ただ、やはり手作りだと色々問題があって、水中に潜ると漏水したり、何かの管が破裂したり、電気系統の故障があったり、余り深くは潜れなかったりしたようです。そのため、黒海での潜水も、完全に満足出来たわけではないようですが、いっしょに潜った友人と共に、さらに潜水艦を改良して、今度は黒海ではなく、紅海で潜水するぞなどと語らっていました。

この映画では、音楽としてウクライナの民謡が使われていたのですが、少し哀愁があるけど、明るく楽しげで、この映画のユーモラスな雰囲気には良く合っていました。また、この映画では、テスト航行の後の宴会など酒を酌み交わしながら歌を歌う場面もあり、映画の雰囲気を賑やかにしていました。ちなみに、ピリペンコさんは、妙に美声で歌がうまいです。

全体的にユーモアたっぷりの映画で、ピリペンコさんの潜水艦への偏執的なこだわりを主題にしたというよりは、彼と潜水艦ををとりまくドタバタや彼自身のパーソナリティーのおかしみ深さを描いた作品になっていました。手作り潜水艦を作るという一風変わったことに力を注ぐピリペンコさんは楽しそうに見えますし、この映画を見ると、ヘンテコな夢を追いかけて突っ走るのも、結構楽しそうだと感じられます。題材も面白いし、素材の料理の仕方も上手ですし、思わず笑ってしまう場面も多いですし、かなり面白い映画になっていたと思います。


この映画の上映後に、監督が壇上に上がり、質疑応答がありました。また、その後監督がロビーで子どもたちから質問を受けたり、個人的に質問がある人たちと話したりしていました。それを見て、この映画祭では、監督と観客の距離が非常に近いなと思いました。

また、この映画は朝10時から、かなり大きなホールで上映されたのですが、それでも席が大半埋まっていたことに驚きました。昼間の上映映画も軒並みチケットが売り切れや立ち見になっていたので、この映画祭は凄く人気があるということが良く分かりました。

また、この映画はビデオ映画なんですが、かなりの大画面でもかなり綺麗に見えたので、最近のデジカムとビデオプロジェクターの性能は相当高いと思いました。


街中では、他にも色々な国の出店が出ているお祭りがやっていたりして、街自体も、かなり活気があると思いました。やはり、このような大規模なイベントは、地方都市の活性化には大きな効果があるのだろうなと思いました。



公式サイト(ドイツ語)


You Tube

映画予告編
村の池でのテスト潜行