松本人志監督 『大日本人』 2007年

松本人志監督の『大日本人』を見ました。この映画は、擬似ドキュメンタリー調に、手持ちカメラで撮影するカメラマン兼インタビュアーが、松本演じる大佐藤さんを取材している映像で構成されています。この大佐藤さんは、大日本人という巨大ヒーローに変身する一家の末裔で、彼が獣と戦うときは、擬似ドキュメンタリー調ではない映像に変わります。

この映画は、観客に、いたたまれない感じや違和感や齟齬を感じさせるための映画です。この映画には、時代遅れなものばかりが出てきます。大佐藤さん本人が時代から取り残されており、存在意義を疑われています。また、大佐藤は、最初は60年代ヒッピー風の長髪、後半は90年代キムタク風のロンゲと流行から外れた髪型をしていますし、ファッションもお洒落何だか良く分からない、年不相応なものになっています。大佐藤さんの周辺にあるものは、全て時代遅れのものばかりで、家も古いし、生活圏は商店街だし、いきつけの店は汚くて古い飲み屋です。彼が変身する変電所も、年代物の古い建物で、従業員も、「働くおっさん劇場」に出てくるような、うだつの上がらないおっさんばかりです。

インタビューを受ける大佐藤さんは、終始下を向いて、ぼそぼそととぎれとぎれに喋ります。インタビュアーの質問は非常に失礼なものばかりなので、映画全体に非常に嫌な感じが流れています。また、変電所に勤めている人たちがインタビューを受けたときのしゃべり方もぎこちなく、つっかえつっかえで、話す内容も要領をえないものです。

それと対比されているのが、大佐藤さんのマネージャーや奥さんなど、大佐藤さんとは相容れない人たちです。大佐藤さんが別居中の奥さんと娘さんと会うときは、ファミレスを使いますし、マネージャーのUAと会うときは、お洒落なカフェで会っています。現代的な場所で彼らと会うとき、大佐藤さんは彼女たちと軋轢を起こすのですが、このことが大佐藤さんが現代社会と齟齬を起こしていることを観客に感じさせます。

また、この映画では、大佐藤さんのおじいさんが出てきますが、彼は認知症で、少々古びた老人ホームに入っています。この老人ホームの場面や、おじいさんの様子は非常に生々しく描かれています。

大佐藤さんは、スポンサー収入を得るために身体に広告を貼ったり、戦いをテレビ中継したりしていますが、全然人気がありません。しかし、彼が突如現れた外国の獣に痛めつけられた放送は視聴率が非常に良く、周りの人間は、危うく死にかけた大佐藤さんにまたあの怪獣が出ればよいですねと言います。

変身した大日本人はCGで作られているのですが、体付きがずんぐりむっくりしていて、肌はカサカサで赤くなり、ひび割れていてかなり汚いなど、可能な限りヒーローらしさが削ぎ落とされています。大日本人と獣の戦いも、特撮らしいカタルシスが全くないものです。

ラストも、大日本人とおじいさんが怪獣に苦戦している最中に、アメリカのヒーロー家族が現れ、怪獣をリンチやいじめのように痛めつける様をロングという客観的なカメラで撮影するというカタルシスのないものです。大日本人はそれを隠れて見ているだけだったのですが、アメリカのヒーローに呼ばれ、いっしょに手を取りビームを出そうと誘われたり、いっしょに空を飛んで帰ろうと誘われたりして、戸惑いつつも、何となく言われるがままに従ってしまうのです。エンドロールでは、アメリカのヒーロー家族がその前の戦いのやり方をめぐって揉めている中、縮こまって座っている大日本人が、「お前、空気読め」と糾弾されます。

このようにこの映画は、全編通していたたまれなさ、社会との祖語、違和感、上手く行かないこと、時代遅れさ、家族に見捨てられたこと、マスコミの商業主義と残酷さ、お金の支配力の強さ、老い、アメリカへのこびへつらいなど、ネガティブ要素をこれでもかとテンコ盛りにした映画です。つまり、この映画は、既存のエンターテイメント映画の文法をほぼ全て無視し、ひたすら観客に、いたたまれなさを感じさせるための映画だと言えます。

この映画は、このように極めてエンターテイメント要素が少ない映画であり、観客に嫌な感じを与えることを目的としているのだから、大半の観客が嫌な気持ちになって、酷評するのは当然だと言えましょう。この映画のドライで淡々とした底意地の悪い演出は、ミヒャエル・ハネケの映画を彷彿とさせると感じました。

個人的には、これほどいたたまれなさを執拗に描いた映画はなかなかないと思うので、非常に希少価値がある素晴らしい映画だと思います。