『誰も知らない』

2003年に公開され、カンヌ映画祭で絶賛された日本映画『誰も知らない』(ドイツでのタイトルは『Nobody Knows』)が、ようやくミュンスターにもやって来ました。この間の『neueWut』と同様に、Cinema という映画館で上映されているのですが、今回は、観客が20人ぐらいいました。

この映画は、1988年に起こった実際に起こった、母親が子供をアパートに置き去りにして失踪した事件を題材にした映画です。しかし、この映画は、実在の事件をかなり脚色しています。

普通ならば、実在の事件の脚色は、より劇的で、非日常的な要素を強調することで行われますが、この映画では、全く逆のことを行っています。この映画では、実在の事件の血なまぐさい部分、残酷な部分などの劇的で、観客の情動を大きく動かすような要素は徹底的に排除され、置き去りにされてしまった子供たちの日常を、淡々と描くという手法を取っています。

見捨てられた子供たちは、次第に追いつめられていき、最後には痛ましい悲劇が起きてしまいます。しかし、監督は、それらの苦境も、不自然なまでの淡泊な描写で描ききります。この脚本や描写の淡泊さは、完全に意図的なもので、監督が、観客に分かりやすい感動的な場面は一切入れず、強い情動を覚えさせるような演出は一切行わないと言う、非常に強い意志を持ってこの映画を作ったことは明白です。

テーマ自体は非常に重く、内容が内容だけに、観た後、酷く重い感情を覚えざるを得ない映画なのですが、映画の演出自体は、そのような重たさを徹底的に排除しています。おそらく、人工的な照明をほとんど使わないで撮ったと思われる、粒子の粗い画面は、非常に柔らかい印象を与えます。昼の場面では、ハレーションが起こるような、露出過剰気味の画面を作っているところも多く、子供たちを取り巻く世界には、光が満ちあふれているとも感じられるような、暖かみにある絵を撮っています。

手持ちカメラによるブレのある映像を多用することや、ハレーションやフィルムの粒子の粗さを利用して、独特のリアリティーや詩的な雰囲気を作り出すところなどは、90年以降の独立系映画の映像手法を踏襲し、上手く使っていると思いました。

置き去りの子供を演じた主演の少年の演技は、抜群に素晴らしく、史上最年少でカンヌの主演男優賞を取っただけのことはあると思いました。しかし、彼だけでなく、置き去りにされた4人の子供は、みんな非常に魅力的に描かれており、素晴らしい存在感を見せていたと思います。子供たちは、余りにも健気で、良い子達なので、映画を観ている間、私は非常に胸が痛みました。

この子共たちは、厳しい状況でも、明るく、健気に振る舞い続け、その活力、生命力が、この映画に、不思議な明るさを与え続けていたと思います。終盤になってくると、子供たちも厳しい状況に打ちのめされてくる場面が増えてくるのですが、それでも合間合間に、子供たちが元気一杯に遊んでいる場面が挿入され、その重苦しさを吹き飛ばします。

この映画では、説明的な台詞、演出は一切行われません。しかし、必要最小限の説明はきちんと行っています。しかも、それを台詞ではなく、映像で行っているところは、この映画の大きな特徴でしょう。言葉ではなく、演技者のちょっとした表情や振る舞いで、登場人物の感情を描く場面が多く、直接的でないからこそ、余計に胸に刺さるというところがあると思います。

終始徹底的に禁欲的な演出をし続ける監督が、ほんの少しだけ自己主張して、映画的な演出をしてしまうカットが幾つかあります。そこだけ少し浮いていると言えば浮いているのですが、そのような禁欲的でないカットがあると、個人的には、余りにも完璧すぎないと言うことで、少しホッとすると言うところがあります。

この映画では、終始淡々とした描写が連なり、子供たちの生活をそのままカメラで切り取っていくという手法を取っているため、監督の主張や映画のテーマは、非常に見えにくくなっています。

この間『トニー滝谷』を観たときも感じたのですが、私が『誰も知らない』を観て感じたのは、もしかすると、今世界で最も洗練された映画を撮るのは、日本人の映画監督なのかもしれないと言うことでした。

それは、言い替えれば、日本のある一部の人々は、図式では捕らえられないもの、言葉にはならないもの、分かりやすく表現できないもので、世界や社会が出来ているのだと、頭と言うよりは、生理のレベルで理解し、そのような感覚を元にして、映画を撮っているのではないかと言うことです。『トニー滝谷』にせよ『誰も知らない』にせよ、観客の感情を高ぶらせる劇的な要素、分かりやすい図式、映画ならではのお約束は徹底的に排除して作られています。そのため、これらの映画を既存の映画の見方で当てはめて理解しようとしても、ことごとく上手く行きません。

そのため、これらの映画は、言葉で、その本質を表現するのが、ほぼ不可能に近く、観客は、既存の図式に頼ることなく、自分の胸の内に沸き上がるもやもやとした無定型な感情に、正面から向き合わざるを得ません。だから、これらの映画は、もし観客が、既知の図式の外側に一歩も出ようとしないときには、単なる良く分からない映画、つまらない映画だと思われてしまうでしょう。しかし、もし観客が、正面から映画と向き合おうと思えば、分かりやすい図式の外側に広がる、非常に様々なものを汲み取ることが出来るようになっています。

あえて、筆を滑らせて書くとすれば、90年代以来の先の見えない不況と文化的成熟が同時進行した時代に、我々は、アモルファスな感情、図式の外側に漠々と広がる得体のしれないもの、理解が出来ないものは、分からないままにしておくしかないということを学び、分からないことと共存しながら生きていく訓練をしてきたのだとも言えるのではないかと、ふと思います。*1

箱庭の中でしか生きることが出来ない人間は、箱庭の外側に広がる世界を想像することでしか、今後上手く社会を作れなくなっていくのではないか、そのような予感が、すでに結構多くの人に訪れているのではないか、我々が学ぶべき事は、分かると言うことの臨界を知り、その内側で人事を尽くすこと、そして同時に分からない感情を抱えたまま、その居心地の悪さに耐え続けていくことなのではないかと、私には感じられます。

少々余談が過ぎましたが、ゲーム友達と長男が別れること、誰からも知られていない、あるいは意図的に不可視の存在にされてしまった子供たちと、学校でいじめを受け、不登校になってしまった少女だけが友達になり、共に行動するようになること、取り返しの付かない悲劇の後も、子供たちが前と変わらず、自分たちだけで生きている場面で映画が終わることなど、現実の事件と大きく異なる部分も多く、その変更は、この映画を実在の事件に基づいたと言うよりも、根本的に違う物語を描いた作品にしていると思います。

あの重い題材が、これほどまでに明るく描かれたのは、何故なのだろう、そして、それが自分には正しいことのように思われるのは何故なのかについては、自分でもまだ良く分からないのですが、今後も考えていきたいと思っています。この映画は、そういった様々なことを考えさせてくれる、奥の深さを持っている映画だと、私は思います。

*1:この映画を観て、分からないことを分かったように描かないことについて考えていたときに、ふと思い出したのが村上龍の『希望の国エクソダス』の次の一説です。「わたしたちは、わからない、ということに日本人として初めて気づいた世代なのではないでしょうか。さっきお話しした農作業の天才少女の国会招致ですけど、あれが滑稽なのは、質問する委員が、あの少女のことを理解していると勘違いしていることです。質問する委員には、幼い妹や弟を助け日本再建のために尽くす少女という物語がありますよね。でも、実際、少女にはサバイバルの意識しかないんです。先程の、私の友人の父親と娘の関係にしても、要するにわからないんです。誰にもわからないし、わからないというほうが多分正常なんです。関口さんは反乱を起こしている中学生のことがわからないとおっしゃいました。わかるわけがないんです。中学生のことだけではなく、他人のことはわからない。もちろん自分のことさえわからないし、未来のこともわからない。わたしたちは、終戦直後と違って、そういったことがわからないということにやっと気づいたわけです。だからこそ知識や仮説や検証といったことが必要になってくるわけで、これは進歩だとわたしは思います」2002年文春文庫版193ページ