押井守監督『立喰師列伝』

押井守が監督した、『立喰師列伝』を見ました。この映画は、戦後直後の闇市の時代から、昭和の終わりまでに名を馳せた立喰師達を描いたコメディー作品です。立喰師とは、立ち喰いソバ屋やファーストフード店で、色々な手管を使って食い逃げをして生計を立てている人々のことです。この立喰師は、押井守の作品の中では頻繁に出てくる存在で、ようやくこの作品で立喰師という存在の全貌が明らかになりました。

この映画は、ほとんど全編に渡って、ナレーションによって話が進行していきます。つまり、たまに店主と立喰師の会話が挿入される以外は、延々と立喰師についての解説が続いているのです。この解説では、その立喰師が活躍した時代背景、その立喰師に関する研究や噂、その立喰師のゴト(仕事)の時代的意味づけが、延々と説明されていきます。

この作品は、一種の偽史ともいうべき手法を用いて制作されています。作品中では、常に架空の研究者や文筆家の架空の著作に基づいて、立ち喰い師についての解説と彼らのゴトの意味づけが行われます。早口で、文章言葉で発話されるナレーションの情報量は圧倒的で、この過剰な情報量が、観ている観客に、理解しきれないことに随伴する酩酊感を感じさせることとなります。

このように何か意味ありげな情報をばらまいて、観客に、様々なイメージを喚起させようという手法は、押井守が非常に得意とするところです。情報の曖昧さ、多義性、そして何より情報量そのものが、解釈の多様性を生み出します。この手法が効果を上げるかどうかは、観客が映画に対してどのような気構えを持っているかに依存します。ほとんどの観客は、映画を観て何かを考えたり、解釈しようとしたりはしないでしょうから、この映画を楽しめる観客は、相当に希少であると思われます。しかし、この映画は、元々希少な観客にしか向けられていない映画なので、それは長所にはなれ、欠点にはなっていないと思います。

基本的に、一度だけ観ても、何のことか良く分からないので、何度も繰り返し、考えながら観て、考えること、解釈すること自体を楽しむ映画とも言えるでしょう。元々ナンセンスなコメディで、何とでも解釈ができるので、尚更何度も観るのに適した映画だと思います。

このナレーションの内容は、当然ながら全てデタラメであり、基本的にナンセンスなものですが、他方、架空ではあるけれども、実際の戦後社会の変化の隠喩として受け取れるものでもあります。この映画の面白さは、その突飛でナンセンスな内容と、それが暗喩する社会批評とのせめぎ合いにあると言えるでしょう。元々笑いと批評は密接な関係がありますので、この映画も、非常に批評的な映画になっていると思います。

では、立喰師が何を暗喩しているかと言えば、戦後の社会のシステムに適応できず、上手く生きていくことが出来ず、社会の異物になってしまった社会不適応者たちを意味しています。そのため、彼らは、形而上的美学者であったり、学生運動の参加者であったり、自虐的だったり、新左翼だったり、テロリストだったり、自分探しのバックパッカーだったりするわけです。彼らの活動は、社会に対してささやかに反抗し、攪乱させようとする性格を持つものです。しかし、彼らはそのため、常にすぐに姿を消す儚い存在でもあります。

この映画では、静止画をCG で動かして、映像が作られています。人々の写真は極端な表情、魚眼レンズの極端な近接撮影で歪められていることが多く、この奇妙な動きや画面構成が、この映画のコメディーとしてのリアリティーの審級を形作っています。また、色彩は、ほぼモノトーンで、なおかつ強いコントラストがついています。この色のない画面は、この映画が、現在の生々しい話ではなく、過ぎ去りし過去の話であるということを、観客に印象づけています。つまり、社会に反抗する立喰師達は、すでに敗北した存在であることを示していると思います。ここから、押井守が、左翼運動の敗北後、日本の社会において、有効な異議申し立ては不可能だという、諦念を抱いていることが推測できます。

この映画は、静止画が基本になっているので、映画全体に、余り動きがありません。これは、この映画がナレーションが主役で、映像は、ナレーションに付けられた挿し絵的な役割を与えられているからなのだろうと思います。

映画としては、内容的にも、映像的にも、かなり変わった映画ですが、偽史好きの人間にとっては、たまらない魅力のある映画だと思います。