【小田嶋隆氏インタビュー】テレビ断末魔の悲鳴を聞いているみたいですよね / 後編

――ネットの普及も関係しているんでしょうが、いわゆる「文章芸」みたいなものが求められなくなっている気がするんですよね、活字の側からも読者の側からも。

小田嶋氏■雑誌自体が何かの宣伝媒体みたいになってきている感じはありますよね。いろんなものがあらゆる点で広告に毒されているというか。テレビが番組のような顔をして番宣しているのと同じで、われわれが書いている記事にしても、記事のように見せかけたパブリシティだったりすることがもうかなり横溢しちゃっているから、文章をひとつの芸として売るというのはもはや希有なことになっているのかもしれません。読者のほうにも、広告が読みやすくまとまっていればいい雑誌だっていう意識ができつつあるから、全部パブ記事みたいな雑誌のほうが歓迎されかねないですし。

(中略)

アメリカには何人か有名なコラムニストがいますけど、そもそもコラムの意味が日本とはぜんぜん違いますからね。50くらい地方新聞があって、そこに寄せたコラムが評価されると大新聞に転載されたりして、ひとつのコラムが数十回とか売れたりするんですね。コラムというのはそういうものらしい。

日本の場合は、ジャーナリズムとはまったく無縁だから、引退した女優が書くエッセイとか、老齢の小説家が手すさびに書く随筆なんかと実質的には区別がない。しかも、ケほども面白くない作家のコラムがなぜ載っているかというと、雑誌や新聞がその作家とのつきあいを維持するためだったりするわけです。日本のコラムというのは、そのヒモをつけとくための営業窓口みたいな位置づけなんですね。そういうことを考えると、なんかこの商売もピンと来ないなというか、不思議な諦めにも似たものがちょっとありますね。

ソフトバンク ビジネス+IT

メディアの収益を考えた場合に、最も重要なのは、広告収入と言うことになるでしょう。これは、雑誌、民放のテレビ局のみならず、インターネットも同じです。私たちが、無料で様々なサービスを享受できるのは、メディアが、メディアが提供するコンテンツそのものよりも、コンテンツを通じて人を集めることによって獲得できる広告収入を主な収入源にしているからでしょう。最近マンガのフリーペーパーまで現れたそうですが、これらのフリーペーパーは、文字通り広告の固まりです。私がいつも不思議に思うのは、たとえばコンテンツそのものに極力意味を持たせず、単なる媒介に徹することが、何故コミュニケーションをより促進させるのかという、そのメカニズムです。逆に言えば、何故コンテンツそのものに意味を持たせようとした場合、大抵はコミュニケーションが阻害されてしまうのかということでもあります。おそらく、これは、最終的には数理的に処理すべき問題のような気がするのですが、どんなものでしょうか