木城ゆきと『銃夢Last Order』

1990年から95年にかけて連載されたサイバーパンク漫画『銃夢』の続編『銃夢Last Order』を読みました。木城ゆきとは、一時期絵がボロボロになっていたので、もう力尽き終わってしまったのかと思っていたのですが、『銃夢Last Order』はかつての『銃夢』を思い起こさせる面白い漫画になっていました。

旧作は色々な謎が明かされないまま、わりと唐突に終わったのですが、その頃色々とあったらしく、その影響であんな感じで終わったらしいです。作者はそれを悔いていたため、本来の構想にあった「宇宙篇」を描こうと本作を始めたそうです。

参考:「銃夢LastOrder予告

銃夢Last Order』のテーマは、旧作と同様に「人間とは何か?」「人間はいかに生きるべきか?」という大時代的なものです。『銃夢』世界では、テクノロジーの進展によって人間とは何かが自明のものではなくなっています。脳だけが生身で後は全て機械の人間、逆に脳だけがコンピューターチップで身体が生身の人間、脳もコンピューターチップで身体も機械のアンドロイド、さらには特殊なバクテリアに感染し不死になったヴァンパイヤまで出てきます。さらに人間の記憶は全てそのままチップ化できるためコピーも可能であり、ディスティ・ノヴァ教授は現在2人に増殖しています。そのため我々が自明としてる人間の定義はことごとく『銃夢』世界では成り立たず、この作品では「人間とは何か」という問題に対する答えが、相対化されまくっています。

まだ話が終わっていないので結論が出ていませんが、『銃夢』世界における人間とは、脳が作り物かどうか、身体が作り物かどうか、自然によって生み出されたか人工的に生み出されたかにかかわらず、強い意志を持って自分の運命を選び取りながら生きる者あるということになっていると思います。つまり、人間であることが自明でない世界においては、人はアプリオリに人間であることはできず、自らが人間らしく生きようという意志を持ち、実際にその意志を貫いて行動し続けることによって初めて人間は人間になれるということです。これは、自我や精神が人間の本質的条件であるという結論であるので、その意味では結論それ自体はオーソドックスなものだと言えるかも知れません。

ただし、銃夢世界では、テクノロジーによって全てが管理可能な社会になっているので、自分の運命をつかみ取る、意志を貫く、自由に行動するそのこと自体が、単なるプログラムの結果ではないかという問題を孕んでいます。全てが仕組まれていたとしたら、個人の意志はどこにあるのか、個人の自由は存在するのかが問題とならざるを得ません。これは現代の管理社会の進行と交差する現代的なテーマとも言えますが、他方で、何故世界はこのように成り立っているのかと、世界の成り立ちそのものに対する懐疑、あるいは反抗に繋がる問題でもあります。しかし、この作品では、全てをコントロールしようとする試み自体が、新たなコントロール不可能な事態を生み出すというアイロニーも描かれており、なかなか一筋縄では行きません。

このような人間像を描くためにこの作品では、記憶を失った=自己のアイデンティティを持たない主人公が、様々な困難に直面し、それを乗り越えながら、自分の記憶を取り戻し、自分がいかに生きるかを学んでいくという成長物語という形式を採っています。この作品では、主人公が直面する困難は強い敵として象徴的に示さます。強大な敵に打ち勝つ、あるいは敗北し強者から生き方を学ぶことによって、主人公は困難を乗り越え、成長していきます。そのため、主人公のガリィは、格闘技的な強さを身に付けると共に、自らそして世界の理を知り、次第に高みへと登っていく修行者のように描かれています。

また、ガリィと並ぶもう一人の主人公とも言うべきディスティ・ノヴァ教授は、自分が人工的に生み出されたこと、そして自分の脳がチップであることを知りながら、自らが背負わされた残酷な運命と戦おうとしています。彼がまだ未完成だというマクロの業子力学が完成するときが、もしかするとこの作品が終わるときなのかも知れません。

このような人間観は非常に規範的・倫理的であり、テーマも物語も非常に大時代的だと言えるでしょう。その意味ではこの作品は、SFという形式を採っていながら、非常に昔ながらの文学的なテーマを追求している古典的な作品だと言えるかも知れません。しかし他方で、この作品は、バトルものの少年漫画としても十分楽しめる作品であり、テーマ追求とエンターテイメント要素のバランスが上手く取れていると思います。こういう野望の大きい漫画は、読んでいて楽しいものです。


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