嶽本野ばら 『ロリヰタ。』2004年

嶽本野ばらの『ロリヰタ。』を読みました。この本には、表題作の中編「ロリヰタ。」と短編「ハネ」が収められています。

ロリヰタ。」は、男性なのにロリータファッションを好んで着る作家が、あるモデルの女の子と恋に落ちるが、その女の子は9才の小学生だったので、世間からバッシングを受け、それでも彼女を愛し続けるという話です。

「ハネ」は、ロリータファッションを好む高校生の女の子が、サブカル少年と恋に落ち、彼の意志を継いで表参道の路上で手製の羽根を売り、大人気になりますが、彼女が作った羽根を悪用した人々のせいでバッシングを受け、それでも路上で羽根を売り続けるという話です。

両作品とも基本構造やテーマはほとんど同じです。主人公は、世間の価値感とは合わず、他の人から理解されない存在であり、にもかかわらず自分を他人に迎合させず突っ張り続けています。彼らは周りから理解されないことを苦しく思っていますが、彼らを理解してくれる存在が現れます。一人で突っ張っていた彼らは、自分を理解してくれる存在に近づこうと、自分を変えていきます。しかし、彼らは両想いになったにもかかわらず、障害が生じて、自分を理解してくれる存在と別れなければならなくなります。しかし、決して届かないと分かっていても、彼らは愛を貫き、彼らの愛を理解してくれない周りに負けることなく、独りで立ち続けるのでした。

つまり、基本的には、誰にも理解されないことを仕方がないと思いつつ、でも理解してほしいと渇望している主人公が、理解してくれる存在を見つけるが失い、だけど愛を貫くという話です。

ロリータとは、自らが信じる美学を、周りの人間が何と言おうが貫くという存在であるようです。これは、やせ我慢の美学のようなもので、ある種少年漫画の美学と似たようなところがあると思います。

ロリータは一時、世の中に認知されたものの、すぐに忘却され、ダサいものとして忌み嫌われるようになりました。しかし、ロリータを心底、愛する者達はそのスタイルを捨てることがなかったのです。何故なら、それは単なるモードとしてのスタイルではなく、生き方のスタイルであったからです。ロリータというファッションに出逢った僕も、ロリータに己の美学の全てを託した一人でした。ロリータが廃れ、蔑まれるようになってからも、ですから僕は、ずっとロリータとは宿命であると発言し、書き続けてきました。(「ロリヰタ。」11頁)


下妻物語』の映画を観たときも思いましたが、そういう意味では、嶽本野ばらの作品は、表面的にはロリータファッションが出てくるということで男性には取っつきにくい感じがしますが、内容的には、男性にも理解しやすいものである気はします。彼は、このような美学を「乙女」的なものだと呼んでいるようなので、乙女的な精神は、少なくとも女性ファッション誌的な精神よりは、遙かに男には理解しやすいもののような気はします。

両作品を読んで感じたのは、主人公の孤立感や孤独感と、自分が理解されるはずはないという諦念、にもかかわらず誰かに自分の思いを伝えたい、理解してほしいという願いの強さと切実さです。やはり、人間独りで生きていくのは辛いので、自分を理解してくれる人、承認してくれる人を求めてしまうのでしょう。両作品は、形式としては恋愛小説ですが、根本的な部分で求められているのは、性愛ではなく、むしろ友情や同胞意識に近いだろうと思います。その意味では、これら二作品も、基本的には女同士の深い友情を描いた『下妻物語』といっしょなのでしょう。作品の中で描かれる、魂の輩を求める気持ちの切実さや打算のなさが、ある意味キラキラ眩いなと感じました。


参考

インタビュー「乙女という宿命」


ロリヰタ。 (新潮文庫)

ロリヰタ。 (新潮文庫)