プロデューサーさんとアーティスト

先日の「主体は、「初音ミク」ではなく、プロデューサーさん」に関連する話です。


現在ランキングに上がっている「Chainning Intention」という曲のコメント欄で、作者のTreowさんが、自分に付けられたプロデューサー名に不満を感じてふてくされているような一文を書いていました。

現在は、タグにプロデューサー名もなく、コメントも変わったため、何があったのかは良く分かりませんが、おそらくは自分のアーティスト名をTreow だと明記して作品を公表しているにもかかわらず、コメントやタグで視聴者から勝手にプロデューサー名がつけられたため、Treowさんが少々気を悪くしたのだろうと思います。


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初音ミク曲では、作者本人が名乗るアーティスト名と視聴者によって勝手につけられることも多いプロデューサー名という二つの固有名を持つ人もいます。たとえば、頂点Pの一人暴走Pは、同時にcosMo というアーティスト名を持っています。

初期の初音ミク曲の作者は、主にプロデューサー名で呼ばれる場合が多く、bakerさんのように常にアーティスト名で呼ばれていた作者は少数派だったように記憶していますが、現在ではプロデューサー名がついておらず、常にアーティスト名で呼ばれる作者も多いと思います。ryoさんやkzさん、Oster Projectさんなどの有名プロデューサーは、プロデューサー名ではなくアーティスト名で呼ばれています。

初音ミク作者に与えられるアーティスト名とプロデューサー名という二つの名前は、それぞれモダンなリアリティとポストモダンなリアリティを反映したものだと思います。つまり、アーティストという呼び名では、主体はあくまで作者であり、初音ミクDTMツールに過ぎないという事が暗黙の前提とされているのに対し、プロデューサーという呼び名では、初音ミク、あるいはニコニコ動画というキャラクターが主体であり、作者本人は、データベースを用いて二次創作を行う数多くの人間の一人であるという事が暗黙の前提とされているのではないかと思います。

プロデューサー名は、基本的に匿名の視聴者たちの暗黙の合意の中で、名付けられるものです。これは、作者側が楽曲の主体として自らの固有名を提示するアーティスト名とは、全く逆の固有名の付け方です。これは、基本的に匿名を前提としたニコニコ動画という環境化で、匿名性を保ちながら、作者の識別を行うために生み出された独特の命名法であると言えるでしょう。このような名付け方は、ポストモダン的なもので、モダンな想像力しか持たない人間にとっては、馴染みがないものなので、違和感を感じる人がいるのでしょう。

私も似たような例をこれまで何度か見たことがあるので、自分がプロデューサー名で呼ばれることに反発した作者の方は、Treowさんだけでなかったように思います。これは基本的には「プロデューサー」というニコニコ動画内でしか通用しない呼び名に慣れていないがための反発、つまり慣習の問題だと思います。ただし、同時に「プロデューサー」という呼び名を使うことで、個々の作者はニコニコ動画初音ミクというキャラクターを使った二次創作を行う多数の中の一人に過ぎないと言う、ポストモダンな作者観を理解できなかった、あるいはそれに違和感を覚えたために、反発が生じたのではないかとも思います。

また、Treowさんは反発していましたが、たいていの作者は、視聴者からプロデューサー名を付けられてもそれを快く受容しています。これは、作者側が、ニコニコ動画的なポストモダン的な想像力を受け入れることをできたからだと思います。

しかし、ジミーサムPの動画のコメントを見ていても、コメントはほとんど作者であるジミーサムPに関するものであり、初音ミクというキャラクターに関するコメントはほとんどありません。そのため、楽曲の視聴者にとって重要なのは初音ミクというキャラクターではなく、ジミーサムPが作る楽曲、もしくはジミーサムPという楽曲の作者であることが分かります。そしてこのことは、ジミーサムPというプロデューサー名は、アーティスト名と同様に、背後に楽曲を制作する神である作者を示す固有名だと捉えられていることを示しているだろうと思います。

ジミーサムPは、楽曲の背景に初音ミクのイラストを使わないので、彼の楽曲に関心を示す人たちも、初音ミクというキャラクターに対する関心が余りない人が多く、モダンな作者観や楽曲の受容が目立つとも思われますが、個人的には、同様の傾向は、他の作者の楽曲でも広く見られるのではないかと考えています。

先日述べたように、初音ミクを使った楽曲の作者は、既に基本的にはモダンな作者観に基づき認識されていると言えます。既にVocaloidを使った楽曲を制作する作者が「プロデューサー」と呼ばれて久しいので、作者が自分からプロデューサー名を名乗る場合も多いですし、「プロデューサー」という呼び名は、ポストモダン的なリアリティをほとんど失い、「アーティスト」と完全に置き換え可能な概念として用いられる場合も多いように思います。

初音ミク」という現象そのものは極めてポストモダン的と言える現象ですが、にもかかわらずモダンな作者観が復活し、支配的になったのは、現象が多くの人に認知されると、多数のなおかつ多様な人々が参入してくるからだと思います。

個人的には、キャラクター的な想像力を持っている人は、日本でもまだごく少数、せいぜい人口の数%である数百万人程度であり、大半の日本人はモダンな想像力しか持っていないと思います。そのため、現象が大きくなり様々な人が現象に参加すると、参加者のかなりの部分は、モダンな想像力しか持たない人々によって占められるようになるのではないかと思います。

また、ポストモダンな想像力を持っている人でも、同時にモダンな想像力も持ち合わせているので、個人が作る楽曲のように、作者と楽曲が不可分となっているプライベートな表現を受容する場合には、モダンな想像力を使って、作品を受容する傾向が強いのではないかと思います。

そして、初音ミク楽曲の作者、あるいは視聴者のかなりの部分は、そもそもキャラクター的想像力を持っていなかっため、また音楽ではモダンな想像力が働きやすいために、現在では普通のポップミュージックとそれほど変わらないようなモダンな想像力によって、初音ミクを使った楽曲の作者が認識され、楽曲が受容されるようになったのではないかと、私は考えています。

オタクは、サブカルチャー集団としては破格の規模を持つ巨大グループであり、その情報発信力も破格なので、彼らが生み出す動きは非常に目立ち、時には現代日本人全体を代表するかのように描き出されることも多々あります。しかし、いくら規模が大きくても、彼らはあくまでサブカルチャー集団、社会的少数派であるため、日本全体を見れば、オタク的=ポストモダン的な想像力よりも、モダンな想像力が支配的なままなのではないかと思います。


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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