90年代後半から00年代にかけての日本のサブカルロック

Cinra Magazin を見ていたら、mixi の「90年代サブカルチャーの総括」というコミュニティが紹介されていました。90年代ノットデッド派の私は早速読んでみたのですが、その中に音楽についてのトピックもあり、ミッシェル・ガン・エレファントサブカル的ではない気がするという発言がありました。

これは90年代後半から00年代の日本のロックの変遷を理解する上で、結構重要なポイントではないかと思うので、この問題についての私見を書いてみようと思います。


先ず最初に、サブカル的とはどんなものかを確認しておく必要があるかと思います。サブカルチャーとは元々メインカルチャーに対するマイノリティーの文化を指したようですが、日本では用語の使い方が大分代わっています。Wikipediaサブカルチャーの項を見ると、以下のような記述があります。

1980年代に入ると、ニュー・アカデミズムが流行し、専門家以外の人間が学問領域、特に社会学や哲学、精神分析などの言葉を用い学際的に物事を語る様になった。サブカルチャーという言葉もこの頃日本に輸入され、既存の体制、価値観、伝統にあい対するものとして使われた。これらの流れは多くの若い知識人や学生を魅了し、「80年代サブカルチャーブーム」と呼ばれる流行を作り出した。この頃のサブカルチャーは現在よりも多くの領域を包含し、漫画、アニメ、ゲーム以外にも、SF、オカルト、ディスコ、クラブミュージック、ストリートファッション、アダルトビデオ、アングラなどもサブカルチャーと見なされていた。しかし、80年代サブカルチャーに共通していえることはマイナーな趣味であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、それらは1960年代のサブカルチャーが持っていた公民権運動や反戦運動などの政治的ベクトルとは無縁であった。もともと社会学におけるサブカルチャーという用語は若者文化をも含んでいたが、エスニック・マイノリティという概念の無い80年代の日本においては少数のサークルによる若者文化こそがサブカルチャーとなっていた。この含意の転回には日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタントによって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、差異化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。

Wikipedia


ここで注目すべきなのは、日本のサブカルチャーニュー・アカデミズムの流行の影響を受けていることでしょう。ニューアカの時代には、思想や文学など本来は難解な学問を、自分を着飾るファッションとして消費する若者が大量に発生しましたが、彼らが同時にサブカルの消費者でもあったのでしょう。

ファッションにおいて重要なのは、自分がいかに他人とは違うかをアピールすることです。ニューアカサブカルは、まさにマイナー趣味を持つことで、他者と自分の間に差異を作り、他人からセンスの良い人間だと思ってもらおうとした、あるいは自分はセンスが良い人間だという自意識を得ようとした若者たちに支持され、流行したのでしょう。

そのため、サブカル的な音楽とは、他者と差異を作るための道具として有効な、ファッション的要素の強い音楽と言うことになるでしょう。

他者と自分を差異化するためには、時代の一歩先を行き、まだ物珍しいものを常にファッションとして纏い続ける必要があります。そのため、サブカル的な音楽は、その時々の最先端な音楽様式を、分かりやすいかたちで提供する音楽ということになるでしょう。

90年代のサブカル音楽は、基本的に欧米の音楽スタイルを日本に輸入することで成り立っていた音楽と言えます。そのため、90年代のサブカル音楽を表現する際の一つのキーワードになったのが「洋楽的」という表現です。つまり、まだ歌謡的要素が残り、サウンドの様式が一昔前の欧米のポップスやロックの模倣であったJ-POPに対して、より欧米のロックやポップスに似たメロディーやサウンドを持つポップミュージックを洋楽的と呼んだのです。

このように90年代までは、まだ欧米のポップスが新しいサウンドや流行を作り出し、日本のポップスがそれを追いかけるという図式が成り立っていました。そして、90年代前半の渋谷系の流行やタワーレコードHMVなどの(当時の)外資系レコードショップの増加で音楽リスナーの洋楽リテラシーが高まり、一気にポップスやロックの洋楽化が進んだのが90年代後半でした。

90年代後半の日本のサブカルロックの隆盛はこのようなコンテクストで生じたものです。では、この時期のサブカルロックが追いつこうとしていたのは何かというと、90年代初めのアメリカにおけるグランジオルタナ、さらに90年代半ばにおけるブリットポップなどだと言えます。

90年代半ばまでは、日本のメインストリームのロックは、80年代的なハードロックギターとシンセサイザーを基調としたサウンドに歌謡的なメロディーを乗せたBOOWY以降のビートパンクの影響下にありました。90年代後半のサブカルロックは、このような80年代ロックを時代遅れのものにして、ディストーションギターを中心とした攻撃的なサウンドと歌謡的でないメロディーを持つグランジ的な色合いの強いロックを日本に広めました。

そのため、この時代のロックを象徴する表現が、当時良く使われた「爆音」です。つまり、耳をつんざくような音量で、歪んだギターや激しいリズムによるグランジ的な演奏をすることが、当時のロックの典型だったのです。

そして、ミッシェル・ガン・エレファントは、ブランキー・ジェット・シティーと並び、90年代後半の日本のロックの象徴的な存在でした。ほとんど歌謡的な要素がないブリティッシュロック、後にはガレージパンク的なサウンドを持ち、鬼気迫るような激しい演奏で、ライブハウスをモッシュとダイブで埋め尽くしたミッシェル・ガン・エレファントは、まさに日本のロックの洋楽化と爆音化を具現化したようなバンドでした。

その後ナンバーガールくるりスーパーカー椎名林檎などの後続バンドが次々と人気を博していくことで、日本のサブカルロックの洋楽化とグランジ化は決定的なものになりました。このようなサブカルロックの台頭を受けて、ロックフェスが次々に生まれ、大型ライブハウスが日本中に作られていきました。この時期が、おそらく90年代サブカルロックの全盛期ということになるでしょう。こうして、日本のロックのグランジ化が一気に進行してきました。

しかし、面白いのは、このような日本のロックの象徴だったミッシェル・ガン・エレファントブランキー・ジェット・シティーは、余りサブカル的ではなかったことです。

サブカル的であるとは、既に述べたように、ファッション的に差異を作り出すことです。音楽で言えば、まだ一般化していない先鋭的なサウンドをいち早く取り入れることになります。

しかし、ミッシェル・ガン・エレファントは、ガレージパンクという昔ながらのロックのスタイルを取っていましたし、ブランキー・ジェット・シティーもまたロカビリーテイストの入ったロックのスタイルを取っていました。彼らの音楽スタイルは、当時の欧米のロックの主流派とはほとんど関係ないところで確立された、どこのジャンルに属すとも言い難い独特のものでした。そのため、彼らのサウンドは、当時の最先端のロックのサウンドを取り入れ、自分たちをいかに他のバンドのサウンドから差異化するかという問題意識とは、かけ離れたところで作り出されたと思われます。

普通ならば彼らのように、その時代の流行とは関係ないところで出てきた音楽スタイルは、ほとんど注目されず、メジャーになることはありません。実際、音楽的に優れ、素晴らしいライブパフォーマンスをするバンドの大半は、時代の象徴になることはなく、知る人ぞ知るバンド、あるいはミュージシャンズミュージシャンで終わるわけです。

しかし、この二つのバンドは、それらのバンドとは異なり、注目を浴び、メジャーになっていきました。アメリカからかなり遅れて、日本でグランジロックが興隆してきた時期に、たまたま巡り合わせたという幸運があったからでしょう。ブランキーは1990年デビューで、なかなか売れなかったわけですから、彼らのブレイクにとって、時代の巡り合わせは非常に重要だったと言えます。そのため、彼らがあの時代を象徴するバンドになったのは、かなりの程度単なる偶然と言っても良いだろうと思います。

そのため、冒頭の問い、つまりミッシェル・ガン・エレファントブランキー・ジェット・シティーは90年代サブカル音楽の中心だったにもかかわらず、サブカル的な雰囲気がしないのは何故かという問いに対しては、これらのバンドが、当時のロックの流行とはほとんど関係ないところで自身の音楽性を確立させていったからだと返答できるでしょう。

そして、だからこそ彼らは、フォロワーを余り生み出さず、フォロワーたちがメジャーになることもありませんでした。元々ロックの中でもマイナーなサブジャンルだったガレージパンクやロカビリーは、彼らがいなくなると同時に、また元のマイナーな音楽ジャンルに戻ってしまいました。やはり、時代の流行やコンテクストとは無関係の音楽は、純粋な音楽の良さでのみ勝負しなければならないので、広範な支持を得るのは難しいのだろうと思います。

逆に、その後多くのフォロワーを生んだのは、まさにその時代の流行のサウンドを用いて、ファッション的に差異を作り出すことで人気を伸ばしたバンドでした。

ナンバーガールは、ソニック・ユースピクシーズといった90年代初期のオルタナティブロックを彷彿とさせるサウンドに文語的な独特の日本語歌詞を乗せるという手法で、他のバンドと自分たちを差異化していました。そして、シカゴ音響派の重鎮デイブ・フリッドマンを録音に使ったり、ヒップホップやポストパンクを取り入れたサウンドに移行するなど、当時の欧米や日本のロックのコンテクストを踏まえ、絶えず独自の立ち位置を維持するし続けることに成功したバンドでした。

また、ナンバーガールと並ぶサブカルロックバンドであるくるりは、骨の髄まで文脈依存的なバンドだと言えるでしょう。くるりは、基本的に時代の半歩先を行き、差異を作り出すことのみに特化したと言っても良いくらい、徹底的にサブカル的に振る舞ってきたバンドです。くるりは、初期のフォークロックから、ジム・オルークと組んでシカゴ音響派=ポストロック的なサウンドに移行し、さらにスーパーカーと共にダフト・パンクなどの四つ打ちダンスミュージックやエレクトロニカを日本に広めました。

だからこそ、00年代になり、欧米のポップスで革新が生まれなくなり、模倣すべきサウンドがなくなると、くるりは自分の立ち位置を自分で作り出さざるを得なくなり、迷走することになります。

この二つのバンドの後世への影響は多大だろうと思います。時代がかった日本語歌詞、ディストーションギターを中心とした過剰にノイジーサウンド、さらに変拍子の多用やヒップホップ的な凝ったリズムはナンバーガールの影響であり、四つ打ちリズムやエレクトロニカ的なシンセサイザーくるりスーパーカーの影響が強いでしょう。

人間は音楽そのものではなく、コンテクスト込みで音楽を聴き、魅力を感じるものでしょうから、ミッシェルやブランキーのような音楽や演奏の強度そのもので勝負したロックよりは、ファッション的で、コンテクストの中で差異を作ることに熱心なサブカルロックの方が、多くの人にとっては理解しやすく、魅力的であるし、何より真似がしやすいのだろうと思います。

また、蛇足ながら述べておくと、90年代後半にミッシェルガン・エレファントやブランキー・ジェット・シティーが、日本のロックの象徴だったことは、思わぬ影響を日本のロック界に与えたと思います。

00年代のイギリスロックの一つの潮流が、ストロークス以降のクラシックでストレートなロックへのリバイバルでした。このロックンロールリバイバルの流れで、ホワイト・ストライプスやHIVESなどによるガレージパンクリバイバルも起きました。

しかし、日本では、90年代にすでにストレートなロックンロールやガレージパンクが一度人気を博しており、英米でロックンロールリバイバルが始まった時期には、このようなサウンドはすでに時代遅れになっていました。そのため、日本では、英米のロックンロールリバイバルは、むしろ先進的と言うよりは、何を今更という感じで受け取られたのではないかと思います。

このことは、00年代に、日本のロックバンドが、英米のロックの流行の影響を受けなくなり、日本独自のコンテクストに従ってロックシーンが進んでいく傾向を強めたのではないかと私は考えています。

現在は日本でもダンスロックが流行しており、英米のロックと似ている部分も結構あるように思いますが、この傾向も、英米のロックからの影響と言うよりは、くるりスーパーカーの影響なのではないかという気もします。

日本のサブカルロックは00年代に下火になりましたが、これは、90年代末までにあらゆる差異化の試みがやり尽くされ、新たな差異を生み出すことができなくなったからでしょう。00年代では、日本だけでなく、欧米でも斬新なサウンドや新たなロックスタイルの流行は生じていません。そして、90年代の洋楽化の時代に、サウンド的には欧米と遜色なくなった日本のサブカルロックは、それまでのように先進的な欧米のサウンドを輸入することによって差異を作るという戦略が取れなくなりました。そのため、00年代のサブカルロックは、かなりの程度90年代後半以降の方法論の縮小再生産をせざるえをえなくなったと言えます。

そして、もはやグランジ的なサウンドが日本でも物珍しくなくなり、サウンドの輸入によって差異を作り出すことが出来なくなったにもかかわらず、自前で新しいサウンドを生み出し、差異を作り出すことができなくなったサブカルロックは、自分を他人と差異化するための道具としては、かつてほど有用ではなくなってしまったのでしょう。

多くの人々は、音楽そのものではなく、音楽に付随する意味や価値や立ち位置により大きな魅力を感じるものだと思います。そして、そのような人々が多かったからこそ90年代後半のサブカルロックは盛り上がったのだろうと思います。しかし、音楽以外の効用が減少したとき、サブカルロックを消費することは、多くの人にとって意味を失ったのだろうと思います。

90年代後半というのは、まだロックに未来があるという期待を持つことが出来た最後の時代なのだろうと思います。しかし、日本のロックが欧米に追いついたことで、日本のサブカルロックも、欧米のロックと同じ閉塞感を共有することになりました。もし日本のバンドが、先鋭的なサウンド、他のバンドと自分たちを差異化できるサウンドを手に入れたいと思ったら、自分たちでそれを生み出さなければならない時代になりました。その意味で、00年代のサブカルバンドは、90年代後半のサブカルバンドよりも、遙かに困難な課題に向かい合っていると言えます。

しかし、英米のバンドは、ずっと以前からそのような課題に直面してきたわけで、ようやく日本のバンドがその問題を共有できるようになったに過ぎません。消費を促進させるためには既存の商品との差異を強調した新商品が必要ですから、ロックリスナーの高齢化を留め、リスナーを再生産していくためには、日本のロックバンドが自分たちでロックの新しいスタイルを生み出して行くしかないのでしょう。